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長い間の我慢を無駄にしないで

美少女(?)タレント集団でクラスターが発生したそうだ。
打ち上げとかの果てのこと、だそうだ。

昨日書いた通り私は所謂ライブハウスでの複数アーティスト(5組くらい?)による
ほぼノンストップの連続ギグに誘われたのだが、その方々に申し上げたい。

やめておいた方がいいですよ!

オミクロンは弱毒だと高を括っているなら、<あなた個人>にもそうであるとは
言い切れないのですよ。
蔓延防止措置が解除されたんだからなどと言うのなら、そんな人為的恣意的なことで
感染リスクが減ることなど全くないのですからね。

朝日新聞の記事より:

「東京都では新たに9520人を確認。前週の同じ曜日(23日)から3090人増えた。
前週の同じ曜日を上回るのは4日連続で、重点措置が解除された22日以降では最多。
基礎疾患があり死亡後に感染が判明した男児1人と、60代以上の男女10人、
計11人の死亡も発表された。都内で10歳未満の死亡確認は初めて。
都によると死因は不明という。」

9520人感染などという昔なら専門家が「感染爆発」と言っていた事態なのに、
では今ならそんなのは昔のコロナ体験がなかった頃の話として笑えるのか。

飛沫感染を超え、空気感染することをようやく国は認めたそうです。

ただでさえマスクして歌う人間はいないのですー
近隣への飛沫放散はおろかウイルスは空気中に漂うのですよ!

ずっと我慢してきたんだ、コロナなんて「インチキ」騒ぎだったと言う前に、
どうか冷静になってください。

我慢してきたこと自体が全く無駄になってしまいかねませんよ!


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The Realm of Athenaがゲームでも流れる





*

Saint Seiya Newsと言うイタリア人のファンが知らせてくれました。
The Realm of Athenaが聖闘士星矢の公式ゲームで初めて音楽として
採用されたということですね。

厭戦の歌、平和を希求する歌です、少しでも今の世界情勢に憂うる人々の
共感を得られればと思います。

作曲者の関根くんもRetweetしていますね。


*

今日は午前中から英語をお教えしていました。
非日常的なものなので、なんだか調子が狂っています。

とある方から音楽イベントへの誘いを受けたのですが、どうしたものか。

なにしろバンドメイトの2人とももう2年間何の活動もしていない今です。
真っ先に音楽活動を共にすべき治雄ちゃん、スティックとも会っていないのです。
なにしろリスクあることをしてはならないですよ。

蔓延防止措置解除なんて、ただの政府の恣意であって、根拠はありません。
もう第7波に入ったとTwitter上で言っている医師もいます。

好意はうれしいですが、やはりお断りするに如くはなし、ですね。



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跳躍し、世界を鳥瞰する歌

小学生だった頃、Phil Spectorの「音の壁」で深いreverbとambienceの
奥行きに魅せられた。Beach Boysもその手法を採り入れたはずだ(詳しくない)。
Beatlesも中期においてはむろん影響されたに違いないが、Spectorっぽくはなかった。

決定的だったのはThe Walker BrothersのEverything Under the Sunで、
小4か小5の頃の夏だった。
例のごとく長兄がレコードを買ってきて、その奥行きある音世界に驚嘆した。
そしてその曲の中のホルンの音に遠い山の端に屹立する入道雲を感じ、
音楽というのは世界を音で表せる事実に心踊ったのだった。

後年私は「デッド」な音空間で歌うのが好きになれなかった。
「MNEMOさん、この曲はreverbなしでもいいんじゃないの」などと言われても、
確かにそうだと思いつつも、奥行きがないことイコール好みではないとしか
言いようがないのだった。

ティーンエイジャーも終わりの頃くらいになれば、自然、「プログレッシブ・ロック」が
好みになって、厚い音でしかも広がりと奥行きがあるアレンジメントこそ、と思った。
EUROXも各メンバーの最大公約数的な好みが「プログレ」だった。

特にスローテンポの暗めなverseの後にメイジャー・コードのchorusへと飛躍する
展開がめちゃめちゃ好きで、「これこそが人生だろ!」などと思っていた。
Beethovenの「苦悩から歓喜へ」であり、Bergsonの「エラン‐ビタール」だと。

もちろんその展開ばっかりやっていてもしようがないのだけれど。

20歳くらいの頃、KM君のアパートでComfortably Numbを初めて、
それも大音響で聴いたとき、心底まさに痺れた。
同工異曲だっていい、このパターンに倣いたいとすら思った。

そしてそれは決して真似ではないとも思った。
The clouds aboveがbreak upし(The Realm of Athena)、
陽光が差すその瞬間を音楽にしたら、
どんなミュージシャンでもマイナー調からメイジャーのコーラスへとの展開を自然にする。

その陽光の差し具合で、Beethoven第九の緩徐楽章(第3楽章)における転調の
ごとき展開もあるのだ。薄い雲が柔らかく、ゆっくりと裂けて日光が差すー

苦しみや悲しみから歓喜へ、希望へと跳躍するー
閉鎖していたこころを自ら開放された広々した、奥行きある世界へ飛翔させるー
そのことを繰り返すのが人生、人間だろう。

Comfortably Numb ーPink Floyd
Partial Cover by MNEMO (2020)

掲載終了


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年老ひての「初心」

Won't You Just Come By ーKing Reguyth & MNEMO (2019)
掲載終了

世田谷区に引っ越してきて、防音室を備えて、一番はじめにできた歌です。
まだまだ録音技術、mixing技術も不慣れな頃のことですが、
<自分のため>、なにしろ「新天地でがんばるぞ!」という気概をかたちにした
第1号なわけで、自分としても久々に聴いて、「初心」を不可忘、ということ!


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Sting's RUSSIANS Again



この歌が「relevant」になる日が再びくるとはStingも思っていなかった、と。
とにかく英詩がすばらしすぎて、non-nativeの私には到底書きようもない。
Stingのような英詩が書けたらどんなにいいだろうと夢見た時代があった。
若い頃だった。

この歌では、まさに核兵器廃絶が可能になる唯一の条件が歌われている。
すごいことですよ。
こんなに頭の良いsingerは滅多にいるもんじゃない。
こんなに人類愛のあるsingerも滅多にいるもんじゃない。


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桜~人それぞれ、悲喜交々に<咲くだろう>

櫻 ー萩原朔太郎

櫻のしたに人あまたつどひ居ぬ
なにをして遊ぶならむ。
われも櫻の木の下に立ちてみたれども
わがこころはつめたくして
花びらの散りておつるにも涙こぼるるのみ。
いとほしや
いま春の日のまひるどき
あながちに悲しきものをみつめたる我にしもあらぬを。



世田谷の砧や大蔵地区は今朝桜がだいたいのところ五分咲き、
仙川沿い、東宝の撮影所近くの桜は、枝が歩道にまで垂れているものがあり、
空ではなく、己の幹や建物が背景となるがゆえ、その花の白さが際立つ。
息を吞むほどだ。

今日は花散らしの風が吹いているが、どうなるか。

私はある頃から桜より梅が好きになっている。
「しづこころな」き桜花の下には人が集中して、私こそしづこころを失ってしまう。


朔太郎氏の詩ではなにしろ、
「あながちに悲しきものをみつめたる我にしもあらぬを。」
が効いている。

そうなのだ。
桜の花を悲しきものと見てしまうのはただ自分のせいなのだ。
桜花自体に悲しいも何もない。
さらに言ってしまえば、美しいも何もない。
すべては己がどう見るか、なのだ。

現に桜花の下、楽しそうにしている人は多いー
いや、しみじみと花を見ている人間よりもはるかに多かろう。

仙川沿いの歩道で朝6時半過ぎすれ違った人は老齢の人が多かった。
ほとんどが独りで歩いている人だった。
しかし中にはカメラを持ち、妻(だろう)と笑顔で歩く老齢男性がいた。
彼にはきっと、朔太郎の詩は<今は>響くまい。


朔太郎さんは故郷群馬県前橋を隅々までと思えるほど詩にしているのだなあ。
終焉の地は世田谷区代田ながら、望郷の念強き人であったようだ。
(なお、その地は、私が都心方面から狛江に帰ってくるときに使った、
甲州街道から環七、そして小田急新代田駅辺りから分岐する道に入り、
梅が丘方向へと続く道=都道補助52号線始点にほど近い。)

JohnもPaulも故郷Liverpoolを歌った。

私も歌いたいものだ。
私が故郷で桜と云えばすぐに思い出す、旧野沢小学校校庭の桜を。
「悲しきもの」としてではなく。



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「情状性の喪失」って記事、311大地震直前に書いたなあ

Mooさんの最近のブログ記事から途中引用ー

<音楽を聴いても、心に染みるということが無くなり、
絵をみても芝居をみても心を動かされることが無くなるとなれば、
これはもう精神の摩滅、衰退、劣化の明らかな兆候・・・
というよりその渦中にあるということでしょうか。

私の青春時代を思い返してみると、あれこれ思い悩み、試行錯誤を重ね、
自分でも「疾風怒濤の時代」と表していたほどの時期がありました。
悩みは悩み抜くことでしか解決しないと自分で言い聞かせ、だからこそ、
その中で聴いた音楽や絵画、書などの芸術は響くものがあったのです。>


私はまだそういう「精神の摩滅、衰退、劣化」を切実に感じるところまでは至って
いませんが、そういうこともいつかそう遠くない時期に起こるだろうとは思える。

私はむろん音楽人間であり、音楽を鑑賞する、自ら創る、自ら演奏するという3つの内
特に「創る」行為がめっきり減ってしまいました。
若い頃(二回目のデビューをし、挫折する40歳くらいまでとする)は「創る」は、
そのクオリティを問わないとして量的には絶好調で、有体に言ってしまえば
<男としての旬>の時期と重なっています。

先日亡くなった三遊亭圓丈さんは『なんばん』の枕で、若い頃はペンを持つと
「自動書記」の如く新作落語ができていった、と。
そして衰えはもちろんあったが、50歳代までは「なんとかなった」と。
しかし60を過ぎると「めっきり」ダメになったと嘆いておられました。

また有体に言いましょう。

男は、女性はいざ知らず、自分の男としての色気が盛んなときに己のパフォーマンスの
量的ピークを迎えるのです。質的なピークも重なること頻々でしょうか。
そして自分の色気が褪せていくのと比例し、創作意欲が衰えていく。
質的には高いものが安定的に産み出せるものの、なにしろ寡作になってしまう。

そんなことは多くの人が語ってきたことでしょう。
なんらの新発見でもない。


私が世田谷へ狛江から移ってきて(数キロの移動にすぎませんが)、
その狛江での最後の7年(東和泉4丁目居住時代)でできた曲などほぼ皆無だった
悲しさがあって、世田谷では意欲的にならねばと4,5曲作ることができていますが、
これは環境の変化、制作環境の改善あってのことであり、色気の復活では断じてない。

降りてきた歌は必然的とでも言わざるを得ないのか、懐古趣味なものとなっている。

色気の復活を熱望するー
などと書いてしまったら、あ~た、自然に無駄に逆らおうとするアホなエロ・クソ爺に
なります宣言ですがな。

空しすぎる。

そんなことは望まない。
懐古趣味なものしか作れなくなったら、それはそれ、いいじゃないか。
これまで積み重ねてきた知識と経験、教養をなんとか生かして、
寡作ながら質高しを目指していくのが本寸法てぇことでございましょうな。

こんなの、ね。
質高いかどうかはちょっと措きつつー

Come On ーKing Reguyth & MNEMO (2021)
掲載終了

(すぐ掲載終了させます。自分が聴きたいだけなので。笑)




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2022 桜二分咲き日記

昨日は富士山麓に在る義祖父母の墓参りへ。
御殿場市街でのみぞれがその霊園では雪になって、ノーマルタイヤゆえ、肝を冷やした。

東京では38年ぶりの三月の低温で、多くの人が面食らったようだ。
開花したばかりの霙まじりの雨で桜も面食らったろう。

*

新しいMacBookを買ったけれども、まだGaragebandを使っていない。
早くとは思うけれど、録音する対象の曲がない。
カバーもなんだか億劫なのだ。

それでもぼちぼちとやり出すのは間違いないので、
もしかしてご期待下さっている方がいらっしゃるなら、どうか気長にお待ちの程を。

*

これから昼過ぎまで英語の授業だ。
何回か書いている新中1のクラスだ。
期待が大きいようなので、少しプレッシャーを感じている。
いい歳こいて。

*

「人間だもの」の相田みつをさんがNHKラジオの「昭和人物史」で取り上げられた。
紀野一義先生のお名前も出てきて親しく聴いた。

本当にまあ、自分を含め人間というのは<しょーもない>とあらためて思う。
もちろんどんな偉人にも恥ずかしい、情けないところがある。
だから卑下して生きよ、というのではない。
だから謙虚に生きよ、というのはある。

ロクなもんじゃない自分を認めつつ、その碌でなしで悩みながら掴んだものを
謙虚に何かしらに表現するー

そういうことだろうと再認識する。



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梅仙女はやはり死なず

昨日の記事を書いてから、ウォーキングに出る際にYouTubeの画面で
歩きながら聴くものを選ぼうとした。
いつもなら音楽なのだけれど、久しぶりに「朗読」で検索、
すると野村胡堂の『初夜を盗む』が「おすすめ」の筆頭に挙げられた。

びっくりした。

私がいくらこの頃世田谷の砧周辺のことを書いているとは云え、
そのことをGoogleがデータ収集していてこの胡堂の短編を奨めてきたはずはない。

野村胡堂は明治15年生まれの岩手出身の作家で、啄木や金田一京助とも知り合い
だったという。一般には『銭形平次』の著者として知られている。
さらには音楽評論家としても大変な力量だったらしく「あらえびす」が筆名だった。
「胡堂」の「胡」も「えびす」であるから、盛岡藩出の原敬の「一山」と同じで、
<まつろわぬ民>の国奥州の人間として誇りをもっての筆名だった。

この胡堂、砧8丁目に昭和7年から14年まで暮らしたのだ。

昭和15年23歳で早世した二女瓊子も小説家で、砧から見える富士を愛でたということが
旧居跡の立て札に書いてある。

『初夜を盗む』
https://www.aozora.gr.jp/cards/001670/files/56099_67730.html
は、不老不死の女・梅仙女に憑りつかれる旗本・江柄三十郎宗秋と、
その新妻・お夏の物語であり、舞台はなんと今は文京区の小日向なのだ!
これはきっと胡堂が一高時代、同郷の校長新渡戸稲造の小日向に在る邸宅へ行った
ことがあるからだろうと私は推察する。
胡堂は東大にも進んでいるし、文京区界隈にはもちろん詳しかったろう。
また、やはり同郷の友人石川啄木も上京してまず小日向の隣町である音羽に暮らした。
ますます土地勘があったに違いない。

物語に出てくる「切支丹屋敷」は茗荷谷ということになるが、所在は小日向だ。
きっと新渡戸や石川の家へ行った折、キリスト教禁制後に信者が幽閉されたこの
屋敷跡に出くわし、印象深く思っていたことだろう。
茗荷(ミョウガ)は暗いところに生える植物であり、「小<日向>」とは裏腹で、
茗荷谷はむろん谷合の窪地で確かに暗い雰囲気の土地である。
奇談にはうってつけの場所だ。


先に「なんと(~)小日向」と書いたが、そこは私が都心へ「逆都落ち」をしていた
1999年から2005年までの間、しばしば散歩に出かけたところだったからだ。


その『初夜を盗む』の朗読を聴きながら、当然私は砧8丁目、胡堂旧居跡へ向かった。

すべての話を聴き終わる頃、ちょうど家に戻ったー

しみじみ怖い話だと思いながら。




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2022 春分前日記

昨日の記事だけれども、書き漏らしていることがあるのでー

それまでの練習量が8千時間、4千時間の学生には一人として「トップレベル」に
到達した者がいなかった、というのだ。
才能に恵まれているなら、8千時間や4千時間でそのレベルに達する者もいそうだが、
そういうことではなかった、と。

1万時間と8千時間の差を感じ取るのは至難かもしれないが、
この調査ではもちろん最高レベルの教授陣、演奏家、批評家が付き合っていただろうから
そこに疑念の余地はないと思う。

練習の大事さー

「天才」や「トップレベル」のミュージシャンは皆知っていることだ。

*

そして将棋界ではその1万時間以上の研究を重ねてきた天才やトップ棋士たちが
割拠しているのだけれども、そのうちの一人の豊島九段がNHK杯で優勝した。
ひたむきな人であり、<父性本能>をくすぐられるところもあって私が好きな棋士の
一人だ。

彼や、藤井五冠、永瀬王座などのトップ棋士たちはみな研究時間1万時間をゆうに
超しているはずだ。そしてそのレベルから、才能というものが物を言うのかもしれない。
なにしろ藤井くんがthe best of the bestにいられるのは、将棋の総合的な学習・研究
時間が飛び抜けているからだと私は思う。
その総和の中、詰将棋にかけた時間は他の棋士を圧倒しているはずで、
これが彼を比類ない棋士にしているのは疑いなく、
そこに序盤や中盤の研究時間をさらに付け加えているからこその五冠なのだと。

*

今、昔買った仲代達矢さんの回想録とも言える、氏自身の俳優人生を、出演作品、
その監督やスタッフ、俳優仲間との思い出と共に語った本を読み返している。
〜春日太一著『仲代達矢が語る日本映画黄金時代』(2013年PHP新書)

一度読んでおいて、「え、こんなこと書かれてたっけ」などと驚くことがあるけれど、
この本もそういう<新事実>満載なのだ。

仲代さんは元々俳優座出身の舞台役者だが、映画俳優として大成したと言っていい。
私が子どもの頃は、彼のギョロッとした眼が少し病的(Wittgensteinのよう)に見え、
怖いというイメージしかなく、長く好きにはなれない役者さんだった。

氏は映画会社と専属契約をせずにいろいろな作品に出演、さまざまな監督と出会ってきた。
それでも、本の巻末にある出演作品一覧を見ると、1954年のデビューから1970年までは
圧倒的に東宝との仕事が多い。

Wikiとかを見ると、仲代さんは目黒区生まれ、父親は茨城県出身の京成バスの運転手
(George Harrisonも父親がバスの運転手だった)、母親は「五反田小町」と呼ばれた
「薬局の看板娘(by Wiki)」だったそうだ。

小2の時父親が亡くなり、世田谷区瀬田に住むようになったという。
以降世田谷区との縁が深いのだが、なにしろ最初が瀬田だったことは仲代さんにとって
もしかすると大きなことだったかもしれない。

女手一つで仲代さんを育てることになった母親、困窮する生活の中、
瀬田の東隣である「用賀の小学校(その頃は京西小しかなかった)」に通い始め、
きっと転校生として複雑な思いをしたに違いない。
母はその後港区青山の弁護士事務所に勤めるようになってそちらに移り、
仲代さんは青南小に転校するが、教師に貧乏人が来る学校ではないと罵られる。

戦火激しくなり調布市仙川に疎開、45年4月、京西国民学校を卒業して帰ってくると
母は弁護士の「妾」になっており、父親の異なる弟も生まれていたのだった。

その後渋谷に住んだりもしたらしいが、すぐに空襲で家屋が焼かれてしまい、
以降は世田谷区の千歳や烏山などで暮らしを立てられていたらしい。

仲代さんの自宅と演劇私塾である「無名塾」は世田谷区岡本に在る。
この岡本、二丁目や三丁目は相当の高級住宅地だ。
仲代さんが父を亡くしてから母と二人最初に住んだ瀬田の西隣となる。
氏はきっと、子どもとして緑豊かな岡本に惹かれ、長くはなくとも遊び場として独り
親しんだに違いない。慣れぬ土地に来て、京西国民学校(現・京西小学校)に入り、
友だちもまだいないという中、孤独を癒したところだったろう。

<だから>、俳優としてがむしゃらに働き、財を成して住むところは岡本だったー
そう思う。

岡本は、多摩川支流の一つでやはり同じく多摩川の支流の仙川とも合流する丸子川で
東西が分けられる。仲代さんの邸宅兼私塾は東側ということになる。
この川をー2キロくらいだろうかー遡れば東宝砧撮影所に至る。

仲代さんの故郷は、もちろん目黒区ではないだろう。
瀬田、用賀、岡本辺りということになるのは間違いない。
そして砧、成城も含めていいのかもしれない。

うれしいではないか、私にとって。

<「無名」歌うたひ>が、『用心棒』や『椿三十郎』の、あの仲代達矢と同じところで
蠢いているなんて!



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Ten Thousand Hours to Mastery

新高3生の教科書にあった
「The Value of Practice: Ten Thousand Hours to Mastery」は
大変興味深い内容だった。

ベルリンの音楽アカデミーに学ぶバイオリン専科の学生たちを90年代初頭に調査し、
トップレベル(ソリスト候補)、優秀レベル(オーケストラ団員候補)、
「うまい」レベル(音楽教師レベル)にいる学生らそれぞれの幼少時から
それまでの練習時間の総計が、およそ1万時間、8千時間、そして4千時間だったと
判ったのだった。

しかも、驚くべきは、才能は関係なく、なにしろ1万時間以上の練習をした学生は
みなトップレベルに到達していた、というのだ。

1万時間というのは、416日ほどである。
むろん416日間ぶっ通しで練習などできない。
1日2時間の練習を欠かさずやって1万時間に到達するには13.7年ほどかかる。

私は5歳から歌を唄いだした。
以降平均して1日2時間毎日歌ったとは思えないけれども、
おそらく18, 19年ほどでそれくらいの時間には達したように思える。
すると私はそのとき遅くとも24歳くらいまでには1万時間の「練習」を終えたことに
なるのだが、唯一のヒット曲『ガリアンワールド c/w 星の1秒』の歌入れは
26歳の時であった。

だからどうした。

^^;)




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過酷な天災と人災の世

正午のニュースを見て、おとといの地震被災のようすを知りました。
こころからお見舞い申し上げます。

3.11以来多分3度目の大地震に見舞われた福島、宮城両県の太平洋側地域のみなさま、
荒天の中、家の修復や断水による不便で本当にお疲れのことでしょう。

こんな頻度で大地震に襲われてしまっては、もはや居住不可能なのではないかとすら
思われていても不思議ではありません。

しかも地域には女川、福島第一、第二と、3箇所に原発があるのですから、
なおさらです。


英語の「rage」はふつう「激怒(する)」という意味ですが、
比喩的に自然が「荒れ狂う」、「猛威を振るう」という意味でも使います。

東北沖の海と大地の神は何をそうお怒りなのか、と私などは思うのです。

いや、東北沖ばかりであるはずはないのです。
もしかすると今こそ日本列島は地震学的に最悪の時代に突入しているのかもしれません。

コロナ、そして大地震・大津波・・・

少なくとも人為により災禍が重大化しないようにと祈るばかり、

ロシアによるウクライナ侵攻・・・

これは純粋に人為ですから、すぐにやめれるのですー
War is over if you want it!
(望めば戦争は終わっている)



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183センチの体躯、鮭の骨と身の賜物か

宝田明さんの名をこのブログ(東宝砧撮影所のことについての3.11の記事)で上げた
ばかりだったが、その3日後に旅立たれたと昨日知って少し驚いている。

宝田さんは旧満州での惨い戦争体験があって、生涯反戦平和を訴えた俳優さんだった。
人類の核兵器製造によって出現してしまった巨大怪獣を描く
昭和29年制作の『ゴジラ』という東宝映画は、
科学技術の恐ろしい側面に対し人類へ警鐘を鳴らす画期的な作品だ。

砧撮影所へ行けば、高さ2メートルのゴジラ・ブロンズ像が入り口前に屹立している。
むろん宝田さんも手に触れられたことだろう。
スタジオNo.5の壁に描かれた巨大なゴジラ像もすばらしい。
宝田さん、「Oxygen Destroyer」開発者芹沢教授役の平田明彦さんらが共に描かれれば
いいのにと心から思うー
「七人の侍」の壁絵には三船敏郎さんや宮口精二さんらが描かれているのだから、と。


宝田さんのお父上の実家は新潟県村上市だったそう。
會津藩と共に西軍(新政府軍)と戦い抜いて<くれた>村上藩の城下町だ。
ここの塩引き(塩鮭)は私の故郷の家では年末年始のご馳走だった。
宝田さんもきっと鮭が大好きでいらしただろうなあ、
などと思いつつ 擱筆する。

合掌。




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未来を保障、for sure

昨夜の地震は3.11の6割くらいの大きさだったような気がする。
前半と後半がある地震で、それについては珍しいタイプだったと思う。
世田谷の震度は4だろうと推測できたし、実際そうだった。

一番に心配したのは、揺れ方から東北沖が震源と推定できた(!)ので、
原発のことだった。
「ただちに問題はない」というようなことらしいが、
「では中長期的には?」と訊きたくなる。

ロシア、いやプーチンの「狂気」が取りざたされているけれど、
誰であれ武力を思うままに使える正気でない者が、
敵国に原発があれば通常のミサイルなどで核攻撃に匹敵する、
あるいはそれ以上の打撃を与えうるわけで、
そういう潜在的脅威を明らかにした今回のロシアによるウクライナ侵攻だ。

そう言ってみると、原発ゼロにしたところで核爆弾を使用されたら同じだろうと
反論されるに決まっている。

では、核兵器を持つ国には屈服するか、こちらも核武装し、牽制するしかないのか。

勇ましい(!)人々は後者を口にする。
最悪<互いにぶっ放し合う>ことになってもしかたがないという結論になる対抗方法が
最善だと思える人の神経が分からない。

*

先日デモ授業をした新中1の生徒さんらが、4月からでなく、来週からクラスを
スタートしてほしいと要望してきたという。
うれしい話だ。

未来を信じるティーンエイジャー間近の彼ら彼女らにその未来を保障するあるいは
保証する大人たちであるべきだろう、プーチンさんよ。




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歴史資料としての映画




昔、東京都狛江市と神奈川県川崎市多摩区登戸を結ぶ多摩水道橋は、
初代がなんと1953年(昭和28年)に完成したもので、
それ以前両市を隔てる多摩川には小田急線の架橋はあったものの、
道路は両岸で途絶し、「登戸の渡し」で舟により連絡するのみだったと知って大いに
驚いたものだった。

その橋で結ばれた道路は、東京側では「世田谷通り」(三軒茶屋が起点の都道)、
神奈川側では「津久井道」という県道になるのだが、今この橋を利用する人でそれが
たった69年の歴史しかないと知る者は少なかろう。

上の東宝映画の冒頭に映される風景では、
まず小田急の電車が<2両>編成で東京都側から神奈川県側へと鉄橋を渡る。
そして次のシーンはその鉄橋の少し上流側を渡し船が東京側へと移動する様子だ。
乗っている人はわずか数人!

そして次には初代・多摩水道橋が正に建設されているところのシーン。
これは実際の映像だと思う。
登戸側から狛江方向を写している。

そして次ー
これが私には<問題のシーン>となる。

映画は、東京が戦後復興を着実に進める時代、その「大東京」に隣接する田舎として
登戸という場所を選び、そこの梨農家の親子の物語なのだ。
登戸が選ばれたのは、東宝の砧撮影所から遠くない田舎だったからだろう。
その距離は「世田谷通り」を使うと4キロあるかないかというような近さだ。
小田急でなら、撮影所最寄りの成城学園前駅から登戸まで間には3駅しかない。

「登戸の梨農家」は今でも在って、さすがに登戸駅周辺は開発されて市街地になったが、
少し北側の中野島方面へ行けばいまだにいくつも梨園を目にすることができる。
主人公の、東京のホテルに勤める女性はその登戸の梨農家の長女で、
華やかな東京でこれからエリートになりうる電気技師と巡り会い、求婚される。
「外国」の沖縄(当時はそうであった)で飛躍するチャンスを与えられ、
技師は彼女に早く結婚を承諾してくれと迫るのだ。

彼女には親戚筋らしい同じ農家の幼馴染の次男坊がいて、彼はずっと彼女を慕っていた。
彼女の父母は、できればその次男坊と娘が一緒になってくれれば梨園を守れるのだがと
思っているけれど、彼女は大都会東京、そしてそこで出会った将来有望な都会人男性との
恋が捨てがたいのだ。

・・・もしこれ以降ご興味があれば、ご鑑賞あれ。

しかし・・・1953年、東京と神奈川北部との隔絶はかくも凄まじかったのか、と思う。
道路が結ばれていないというだけで、登戸は大田舎だったのだ。
今川崎市の多摩区や麻生区などに住む人々で、「東京もんは」などと言って東京に住む
者たちに悪口雑言する者は皆無なはずだ。


さて、「問題のシーン」のことだ。

2分49秒のところから多摩川とその両岸の風景が映し出される。
そしてゆっくりとカメラを左方向へ振ってその左岸横に広がる田園風景を映す。
梨農家はその奥の方に在る、ということになる。

しかし、私の観察するところでは、このシーン撮影のカメラは狛江市の「五本松」
辺りに据えられたに違いないのだ。
なぜそう言えるかと云えば、右岸のはるか向こうに明らかに多摩丘陵が映っているからだ。
主に、後には向ケ丘遊園として開発される川崎市多摩区や宮前区の丘だ。

左岸の田園風景の奥に丘陵はない。
すなわちここは狛江市の元和泉地区であり、砂利道はつい最近まで土手道として在った。
田畑はすっかり住宅地となり、また今は西河原公園となっている場所だ。

だからどうした。

山本嘉次郎監督は、登戸の梨農家なのに、冒頭シーンでは狛江市の田園風景を使って
そこに在るかのように撮ったということなのだ。
なぜなのか。
きっと登戸の岸辺近くの農地風景が狛江側のより絵面が悪かったからだろう。

こう謎解きしても、だからどうした、である。


自分が住む、あるいは住んだところの昔の風景というのは実に興味深いものだ。
映画には歴史資料としての側面もある。

大昔ここで国際放映(世田谷区砧)の『けんちゃんシリーズ(初回は1969年)』で
正に上述の狛江市「五本松」でワンシーンが撮られたことについて書いた。
対岸の川崎市多摩区中野島がただの草っ原であったことに驚いたのだった。

国際放映、円谷プロ、東宝砧撮影所、さらには調布市に在る日活撮影所や角川大映
スタジオなども含めると、世田谷、狛江、調布、そして対岸の川崎市北部が
<手軽なロケ地>として撮影された作品はもっともっとあるに違いないのだ。

それが興味深く、楽しい。


なお、映画では梨農家の苗字が「石井」である。
実際多摩区の農家には石井姓が多いのではないか。
実は対岸の狛江市元和泉にも石井姓の農家がいくつも在る。
また、世田谷区砧周辺にも石井姓の農家(地主)が多い。

そんなことを知るのも楽しいのだ。



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「女流」なんてことばは屈辱だ

TV将棋などで棋譜の読み上げや記録を担当することで勉強&アルバイトをしていて
将棋ファンなら一度は見たことがある小髙奨励会三段が年齢制限に達し、
プロとなれる四段になれぬまま退会となった。

彼には女流棋士の妹がいて、すでに女流初段(女流では2級が正式プロ、1級、
初段と続く。「女流」がつかぬ棋士の世界に準えれば六段に相当するが、
もちろんあくまで準えれば、である)になっており、
その妹さんがTwitterで兄の退会を嘆き、「将棋が本当に強」い兄の悲運に
「泣いている」と書いた。

妹さんは一番理解していたはずだー
女流棋士などという制度は甘すぎる、ということを。
兄に比べてあまりにも歴然とした差があるのに、自分は高校生で「プロ」になれ、
兄は奨励会で並み居るライバルたちと鎬を削って、互いに狭すぎるプロへの門戸に
殺到しようとしているー

女流棋士の制度は、はっきり言う、逆差別だ。


女流棋士の中のトップ、すなわち女流タイトル保持者は今4人で、
全員が奨励会経験者であり、里見さん(四冠)と西山さん(二冠)は三段まで行き、
加藤・清麗は初段まで、伊藤・女流名人は1級まで到達した。

そのトップ4人こそ、「逆差別」を最も深刻に感じているはずだと私は確信する。

この4人の中、別格と言っていいかもしれないのは西山朋佳二冠だ。
彼女は3段リーグで14勝4敗という、四段昇段(=棋士としてプロ・デビュー)しても
全くおかしくない成績をとったことがあるからだ。

彼女は今、里見さんら3人が<少しはホネがあるから>タイトルを争ってもそう
退屈はしていないかもしれないが、きっといつかはどうしても「女流」がつかない
棋士たちと競い合って、できればタイトル戦に出たいと思っているはずだ。

自分たちが突破できなかった奨励会三段リーグを、同じように去って行かねば
ならなかった多くの「男性」会員たちは、自分たちのように恵まれた環境で
将棋によって生計を立てることができず、遅まきながら実社会で将棋以外の仕事を
せねばならなくなっているのだ。申し訳ないという想いがあるに違いない。
だからこそ、自分が14勝して普通ならリーグを突破できていたことを多くの棋士が
認める中で、女流も出場できる棋戦で安定して勝ち上がっていく力を自分こそ
つけなければならないと感じているはずだと思いたい。


頭脳ゲーム(頭脳スポーツ)に本来女性ハンディキャップなどあってはならない。

そのことを一番理解している、そしてその逆差別解消に努力する4人であってほしい。



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2022 弥生随想

この21世紀に「先進」地域のヨーロッパで戦争が起こるなら、
その中でも比較的「後進」の東側のどこかにおいてだろうとは多くの人が思って
いたのではないか。
何が「後進」かと云えば、民主主義体制の成熟度、そして<地球人意識>がその国の
人々の間に根差すプロセスの進度においてである。

換言すると、その国の民が本気で民主主義を望んだかそうでないか、
また自国のことばかりではなく、地球規模の問題(環境・気候変動、民族紛争、人種差別、
性差別、貧困・富の偏在などなど)についてどう国のあり方を考えているのか、
ということだ。

この問いに心許ない返事しかできぬ国は、何かしら他国を脅かすことをしかねない。

東アジアでも、ある国が脅かしから実力行使へと向かう可能性は相当に高いと言える。
そうならぬよう、私やあなたができることは何か。
微力過ぎてどうにもならんとなった時点で、先述の可能性が格段に高くなり、
必然とも言える程度のことになってしまう。

*

東京は深夜から明け方まで雨が降ったようだ。
今は良い天気だが、少し蒸し暑いくらいになっている。

さて、今日は少しでも音楽活動をするか。

なにしろもう単独活動ばっかりで意欲が失せてしまっている。

情熱を焚きつけてくれることが起きないかなあ。


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The worst scenario

東京は最高の陽気で、多摩川の春を自転車で満喫してきました。

春霞で高尾山すら見えないほどでしたが、暑くなく寒くなく、
本当に気持ちの良い昼下がりでした。

狛江の河川敷では子どもたちが乗馬を楽しんでおり、大勢の人出でした。

そんな平和で長閑な時間を過ごして帰ってくると、
エストニアにロシアがウクライナと同じ理由で侵攻する可能性があり、
エストニアはNATO加盟国であるがゆえ、核戦争にまで至ってしまうシナリオを
下の記事で読むことになりました。

https://www.vox.com/2015/6/29/8858909/russia-war-flowchart

こんなことが起こったら本当に人類は破滅します。

こんなシナリオを完全には否定できない今、
私は、あなたは、何ができるでしょうか。


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恒星間旅行ができる野蛮な知的生命?

今までも一回以上は書いてきたと思うけれど、私が今住むところは、
国際放映(Tokyo Media City)に遠くなく、またウルトラマン・シリーズを生み出した
旧円谷プロにも遠くない。
これらは東宝砧撮影所近くに造られる理由があったのだろう。

そのウルトラマンだけれど、私もチビの頃、まず『ウルトラQ』にハマり、
次にいよいよ『ウルトラマン』が始まり、そして『ウルトラセブン』と夢中になって
いったのだったが、その辺りで興味は失せ、その後のシリーズには無関心となった。

カネゴンやガラモンにはかなりのリアリティーを感じたのだけれど、
ウルトラセブン・シリーズになると「怪獣」の粗製乱造を感じるようになった。
あまりにも着ぐるみの質が悪いではないか、という想いだった。

人間が入っているというのは小学生にだってもちろん分かった。
それにしても、たとえ脚が腕が5本以上あろうが、入っている人の四肢がはっきり分かり、
それがカバーできない腕や脚はブラブラ、あるいはプラプラしていて、だらしない。
どんな異形であっても、中の人間の四肢が際立って、<着ぐるみミエミエ過ぎ>で、
全然リアリティーを感じないのだった。
また、怪獣の目が奥の40Wくらいの電球で光っているのも実に不自然で安っぽく、
まったく<子ども騙し>の造形だった。

ウルトラ・シリーズに並行して映画では東宝はゴジラをいろいろキャラクターを変えて
世に送り出していたけれども、ゴジラが「おそ松くん」のイヤミがする「シェー」を
やった時は子どもながら鼻白んだ。

まあ、踊らされない嫌なガキだったのだ。

だから踊らされている同級生らを目にすると「しょーもねーな」と憐れんだ。
「そろそろ大人の鑑賞眼を持ちませう」と。

次兄などとは「結局ウルトラQが一番怖かったし、現実味があったね」と語り合った
ものだった。


そんな時代から幾星霜、NHKのBSではその円谷プロのウルトラ・シリーズを
4Kリマスターとかして放送し始めた。
『ウルトラQ』はやはり現実感のあるミステリーものとして見ることができた。
しかし、それ以降はやはりすべての面で噴飯物としか言いようがないのだ。
「子ども向けの娯楽作品にそこまで本気で批判精神発揮したって」と大人気ないと
言われてしまうのだろうけれど。

なにしろー

恒星間旅行ができるほどの技術力を持つ「宇宙人」は、どんな手指で
その技術力を獲得、発揮したのか。
繊細な手仕事など一切出来そうもない手の形状をしているものばかりだ。

これは相当後年のアメリカ映画の『プレデター』でも感じたことだから、
あまり円谷プロを責めても仕方がないけれど。
プレデターは末期に核爆弾内蔵の自爆装置を、長い長いかぎ爪を使って危なっかしく
ボタン操作して起動させる。
こんな爬虫類のような手指で、どうやったらそんな技術力を獲得したのか。

恒星間旅行ができるような超高度文明が、地球のような、広大無辺の宇宙ならありふれた
惑星を、どうして侵略する理由を見出すだろう。

そこまでの文明に到達する知的生命は、互いの間での核戦争や自然災害など自分らに
絶滅の危機をもたらす危難を乗り越えてきたのだ。
天の川銀河の片隅の、ちっぽけな恒星の一システムにある惑星に住む、
まだ互いの殺し合いをして恬として恥じない哀れな生き物を征服して喜ぶような
低劣さなどあるはずもないのだ。


*

ウルトラマンよりトーホグマンだ!

Tohogman's Themeー King Reguyth & MNEMO (2020)
掲載終了


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大・多摩川の大地に暮らして

私は散歩で仙川に沿う道を歩くことも頻繁にある。
私が歩く範囲で言えば、上流方面の限界は祖師谷公園、下流方面だと野川との合流
地点(世田谷区鎌田)ということになる。

昨日NHKBSの「アナザー・ストーリー」で、黒澤明監督と俳優・勝新太郎の
映画『影武者』における対立、結果としての勝の主役降板にまつわる挿話を視聴した。
そのVTRに頻繁に出てくる撮影所風景は、私には大変見慣れたものなのだ。

そこは東宝砧撮影所であって、仙川を挟んで東西に広大な敷地を持つ。
仙川を歩いていれば、黒澤さんと勝さんがやり合ったというスタジオに通じる入口脇を
通ることになる(中も相当奥まで覗ける)。

この撮影所では黒澤作品はもちろん『ゴジラ』など特撮物も作られたし、
子どもの頃から好きだった映画は東宝作品が多かったから、
その撮影所の近隣に住んでいる今、感慨深いものがある。

仙川は野川の支流という扱いらしく、その野川は多摩川の支流である。
仙川と野川の間の台地は、私が住むところの近隣では成城地区となっている。
台地の西の果て、つまり野川へと落ち込むところが「国分寺崖線」であり、
野川から多摩川まで(世田谷区喜多見から狛江市東和泉や駒井辺りまで)はほぼ土地の
高さは同じ、つまりは大昔は多摩川の河原だったということになる。
多摩川からもっと西、つまり神奈川県川崎市に入れば、「多摩川の河原」は多摩丘陵の
麓まで広がっている。小田急線沿線で言えば、川崎市の生田緑地の入口辺りが
大昔の多摩川の南岸ということなる。

會津の片田舎に生まれ、27歳で狛江市に住むようになって以来、
多摩川がつくりだした大地を本拠にして40年近くになってきた。
どういう縁なのだろう。

黒澤さんが、三船敏郎さんが、勝さんが、宮口精二さんが、森繁久弥さんが、
植木等さんが、仲代達矢さんが、加山雄三さんが、田中邦衛さんが、宝田明さんが、
ザ・ピーナッツの姉妹が・・・
スタジオを抜け、仙川のほとり、一息ついたりしていたんだろうなー

そんなことを思いながら歩く。
無名に近いシンガーながら、私も大・多摩川とその大地にインスピレーションを
もらっているひとりであると自負しながら。



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I was dead for three years

起きてから早速NHKBSの「アナザー・ストーリー」を見た。
JohnのIMAGINEが特に東欧(さらに特に当時のチェコスロバキア)の若者たちに
与えた影響についてのドキュメンタリー部分が印象に残る番組だった。

Beatlesが世界の若者たちに与えた影響はほんとうに多岐に亘り、
それは古い体制や価値観を、愛と平和、自由で刷新するもので、
音楽はもちろん生き方についてのメッセージであり、その浸透ぶりが研究され、
すでに学問(Beatlesology)の対象にもなっている。

先日のHey Judeが冷戦終結に及ぼした影響を語った番組に
さらにIMAGINEのを付け加え、まるでNHKは今のロシアのプーチン専制を壊す
ヒント特集をしているかのようだ。

1971年、初めてIMAGINEをー
灯油をこぼしてしまってその匂いが取れぬままになった自分の部屋でー
聴いた私は、それは冬のことだったなあと思い出す。

シンプル無比なこの曲の厳かさには中学生の私であっても打たれた。
ただし、ヒットチャートの1位にはなれない曲だなとも思った。
その頃はPaulとのチャート順位争いが始まっていたし、
GeorgeもRingoもその競い合いに参加していたし、
John贔屓の私は少し焦慮するぐらいだった。

GodMotherWorking Class Heroなど、
Johnの<虚飾を剥ぎ取った>シンプルな歌は深刻なものばかりで、
popでいようなどという想いは微塵もないようだった。
それでもOh, My LoveLoveなど、美しいメロディーの曲もあり、
しかしこれらでチャート1位になれないならもうJohnは永遠にその<栄誉>には
浴せないのではないかとやきもきしていた。
(実際は、1974年に私の好みではない、Elton Johnとの共演曲
Whatever Gets You Thru the Nightで1位になるのだが、
楽曲的にはそれまでにいくらでも優れた曲があったのにと購買層の低レベルを呪った。)

私の通った中学は會津という田舎のさらに田舎の学校であり、
男子生徒は坊主頭が強制されていた。
私は今でも13歳でJohnのように長髪で金縁メガネ(伊達)にできなかったことを
心から恨んでいる。
基本的な自由に関わることを制限する校則などというくだらないものへの嫌悪感は
この歳になっても完全に払拭することができないままだ。
日本の田舎などというものは1970年代でも自由については後進性が甚だしかった。
(私の知る限り、私の中学などが属する学区において丸刈りを強制されて
いなかったのは喜多方第一中学校だけだったはずだ。因みに後に有名になる
喜多方ラーメンの元祖店はこの喜多方一中の学区内に在る。まあ、それと丸刈り強制が
ないということとどれほど関連があるかは定かではないけれど。笑)

Beatlesの曲、彼らのファッション、インタビューなどでの自由なふるまい、
ウィットなどなどに刺激されない少年などいるはずがなかった。
私はしつこいようだけれど、5歳から6歳にかけての頃に長兄の影響で洋楽を聴き始め、
1964年にはPlease Please Meで「心の高揚(by Mick師)」を覚えていた。
1967年には長兄が世界同時発売だったSgt. Pepper'sを小学生として聴いていた。
(ブッ飛び過ぎで怖くて聴けない曲も多かったけれど。)

そんな少年が中学で丸刈りを強制され、自由より規律、個人より集団、
愛だ恋だより禁欲・勤勉などを強いられた3年間は地獄だった。

繰り返すが、私は自分が通った中学を心の底から嫌悪している!
(そんな地獄の3年間でも、山田先生、遠藤先生、岩橋先生は大好きだったが。)

だからー

70年代の日本の田舎なんてものは、プーチン・ロシアみたいもの、
あるいはソ連影響下のチェコスロバキアのようなものだったのだ。

なに?
Beatlesを自由に聴けただけマシだった?
それは曲がりなりにも「自由主義陣営」の一国だったからでしょ。
親分筋の米英の音楽を否定することはできなかっただけのこと。

*

IMAGINEはいずれカバーしたいけれど、シンプルな分、特にピアノのニュアンスは
相当にカバー(コピー)がむずかしいだろう。
ドラムスも生でなければいけないだろうね、迫るカバーにするためには。




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Mr Dekapan, help us make peace on Earth

昨日は故・デカパンさん関連の記事が多く読まれました。
デカパンさんファンがいまだに多いのだなあと実感するばかり。
前にも書いた通り、私は氏と親しかったわけでもないのですから、
友だち気取りをすることはありません。
ただ、吉祥寺BOPさまでのミニコンサートで氏と共に演奏したことー
おそらく氏の生涯最後の演奏を共にしただろうことに関しては誇りというか、
ありがたいことだったと思っております。

デカパンさん、どうか人類が平和を愛で達成できますように、
お見守りください。

*

追記

デカパンさんとのミニ・コンサートは吉祥寺のBOPさまにおいて行われました。
デカさんとはBeatlesナンバーをいくつか共演したのです。
デカさんもBeatlesなしにはギタリストにならなかった方ですね。
大好きな先輩でした。

そのとき共に歌ったかどうか定かではありませんが、
この短いカバーを捧げます。

In My Lifeー The Beatles (Lennon-McCartney)




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新Garagebandに期待

いよいよこの記事を書いているMac Bookを買い換える。
3年前くらいに<時代から外れ>、例えばWikipediaを開けなくなった。
しかたなくWindowsの安いデスクトップを買ったのだが、
キーボードのタッチからなにからApple恋しやで、愛着をまるで感じない。

1994年だったか、初めて買ったPCがMacintoshのLCシリーズだった。
最初がMacだとどうしたってそのデザイン性の良さや遊び心などに惚れてしまい、
Microsoftのはみなダサく見えてしまう、思えてしまう人間となった。

世田谷に越してからの音楽的outputは、MacのGaragebandを使ってのもの、
使い方を徐々に理解し、納得の録音やミックスができたと思えることも増えてきた。
新しいMac Bookにもむろん搭載されているGaragebandは最新のものになるはず、
どうミキシングなどが変わるか楽しみだ。

Garagebandはむろんプロ仕様の録音・ミックスソフトウェアではない。
すさまじく高価なソフトウェアに比べれば笑ってしまうスペックだろう。
けれども、私はほとんど満足している。

1982年とかに録音をしようとすると、市井の小さな録音スタジオで大枚はたいて、
時間を気にして、突貫工事的にやるしかなかった。
16トラックのコンソールとかを目にすれば興奮した。
いつか自分もこんなのを自前にし、スタジオを持てたらどんなに幸せかと思った。

そのころは録音をあっという間に仕上げ、すぐにミックス、
大体のところで妥協して契約時間(たとえば機材搬入・搬出含め6時間とか)内に
終わらせるしかなかったし、そのトラックダウンしたマスターのメディアは
カセットテープだった!
「メタルテープ」をマスターにするのだが、それは贅沢なことだった!
(メタルテープはふつうのより数倍高く、音質が良かった。)

2年後、SUNTORYの「バイオミンX」という健康飲料(?)のCMで私の作品
Prideが採用され、その録音で行ったプロだけが使える都心のスタジオ
(どこであったか完全に失念)は気圧されてしまうほどのきれいさ、豪華さで、
ナン億円というような48トラック(?)の巨大コンソールを見て卒倒しそうになった。

そんなすばらしいスタジオでの作品も、個人レベルでいただく完成音はやはり
カセットテープにダビングされたものだった。
無音のところは「サー」という音がして事実上有音だった。
たとえドルビーのnoise reductionをやってもだ。


時は下って、旧バージョンのGaragebandはどうだ!
そんな雑音は入らない。
音質も<昔>のプロスタジオ収録のものと遜色ない(と私は思う)。

なんというありがたい時代まで生き延びられたことか!


*

ここ数日コンスタントにリクエストがある1984年に降りてきたAll We Know
としてタイトルをつけられ、後『君にたどり着いた』となった曲を再掲します。
前回にも書きましたが、大サビからサビの部分にこそ<私の>憂愁表現のひとつのピークが
あると思っています。
詞もやはり憂いある慎重さ、ですね。

君にたどり着いた (English Version) ーKing Reguyth & MNEMO
(Re-recorded in 2021)
掲載終了

大サビからサビにかけてのlyrics:

It took me so long to find you
Why did I have to live without you this long?
Now that I know
We’ll never part
Unless we want to


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Tsar, tell me all your sad stories

窓外に見える空は私が大好きな、青をバックにしたいくつもの白い綿雲。

好きな棋士の一人松尾八段が深浦九段に勝って、NHK杯初の決勝進出(のはず)。
松尾さんくらい粋なbarでスコッチを独り飲んでいる姿が似合う棋士はいない。
バタバタと負けになってしまった深浦さんは顔を真っ赤にして悔やむ。
それはそうだ、準決勝の一番なのだから。

こんな「戦」なら、毎日、いつ起こっても楽しい。

チャンネルを変えればニュース。
ウクライナでのロシア軍の傍若無人のふるまい、人殺し、国を消滅させる破壊行為を
見せつけられ、本当に一体これまでの人類の学びは何だったのかと無力感に襲われる。


昨日のデモ授業は大変うまくいったようで、12歳の少年少女はぜひ受けたいと事後
言っていたと塾長先生がメールをくれた。

「なぜ英語なんかやるんだろうね」と私は子どもたちに問いかけた。
むろん「役に立つから」、「英語は国際語だから」という答えになるだろう。
「英語を通じ、母語である日本語を見つめ直せ、英語や日本語を超えた言語そのものの
本質や深い部分に触れられるようになるから」などというようなことを私は言った。
ちょっとむずかし過ぎるかと思いつつ。

「例えば僕はもう8年も前だけれど、松本駅の出口から左の牛丼松屋で食事中、
対面する椅子に腰掛けたアメリカ人カップルがメニューを見ながら頭をひねって
いるのを目にし、その男性と目が合って、お互いににっこり笑ってから、
僕がWhat seems to be the problem?のようなことを言って(この英語の解説は
しなかった)からその二人と打ち解け会話したんだ。その米人カップルは最初、
僕の英語にびっくりしていたよ。まさか地方都市のfast foodの店で食事している
<おっさん>が完璧な発音の英語で話しかけてくるなんて、っていう感じだろうね」と。

子どもたちも付き添いの母親たちも笑った。

「そんな思い出が僕にも、その米人カップルにもその時その場でできたんだ。
どうでもいいことかもしれないけれど、人生っておもしろい、楽しい思い出の積み重ね
でもあるよね。もちろん苦しい思い出も、だけれど。

なるべく愉快な思い出を残して生きていければいいよね。
そんなとき、英語ができてよかったなっていうエピソードがきっとその愉快な思い出の
中でそれなりの割合を占めるかもしれないね」と。

「ウクライナで悲しい思いをしている人が、ウクライナ語で訴えるー
当然のことだ。それはそれでいいに決まっている。
でもその想いが英語にできるなら、そうしてみれば、きっと世界中の英語を母国語にする
人々ばかりかそれより多い英語学習者にも届くってすごいことだと僕は思う」と。

*

今日東ローマ帝国皇帝(Tsar)きどりのPutinさんに捧げる歌ー

Come On ーKing Reguyth & MNEMO (2021)
掲載終了

世田谷に引っ越してから降りてきた自作曲の中で今私が最も好きなものです。

Remember how we were
Terrified
But we still had a vague hope

Though we could never justify
The things we did at the end of our rope

Come on

(Join me while you still can speak / Tell me all your sad stories)



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No More Need to Pretend You're Strong

今日はこれから新中1の生徒7名へのSkypeデモ授業です。
爺ちゃんの授業、12歳の少年少女に<ウケる>ものかどうか。
ちょっと不安です。

この子どもたちも、未来があるという前提で学校以外でも勉強しようというのです。

なのにプーチンは核戦争や原発破壊を匂わし、気の遠くなる程多くの人々、
子どもを殺すことも厭わないというような態度でいます。
世界中を敵に回し、威嚇し、平気でいるのです。

今日は、やはりこの歌を掲げるということにすべきです。

The Realm of Athena ーEUROX (Anri & MNEMO)
https://www.youtube.com/watch?v=sQ5wuonZOZM

No more need to live this way, Putin!


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Vernal Breeze

おとといの、午後3時過ぎくらいことです。

私はいつもの散歩コースを歩いていて、そのときはある団地の最も西にある、
200メートルほど南北に延びる路地に入ったところでした。

目が良い私(!)は、その路地の途中にある、世田谷通りを跨ぐ橋を勢い良く駆けて渡る
少女をみとめました。上下運動がかなり激しい駆け方をする子で、
彼女を見ている私の視線上に重なっている歩行中の老人の背中がほとんど動かないので、
その子の<躍動ぶり>がさらに強調されるようでした。

近づいてくる少女は上背のわりには顔が幼くて、小学校高学年というところー
汗をかき、コートを手に持って駆けているのでした。
いよいよ至近距離まで近づくと、どういうことなのでしょう、
その女の子は走りをやめて歩き出し、私に向かって一瞬はにかむような表情をしてから
満面の笑顔で軽く会釈し、何か言葉を発したのですが、生憎私は例のごとくYouTubeで
音楽を聴いており、彼女が何と言ったのか全く分からなかったのです。

何て言ったのか、私のことを知っているのか、知っているのならどういう経緯でー

そのまま遠ざかっていく少女にそう訊きたいと一瞬思いましたが、
すぐに「そういう子なのだ」と思い直し振り返りもしませんでした。
「そういう子」とは、視線が合った人には笑みを見せ挨拶をする習慣を持つ子、
ということです。

私はすれ違う瞬間もちろん会釈し返していました。
見るからに明朗活発な少女が、輝く笑顔で挨拶してくれたなら、
誰だってこちらも笑顔で応じるに決まっています。

彼女に同じように挨拶されたstrangerたちは今までにきっと大勢いるでしょう。
おそらくそのほとんどの人が清々しい風に吹かれたような気分になったはずです。
私は振り返る代わりに弥生の空を仰ぎました。

東京の、もう春爛漫間近を感じさせる気持ちの良い昼下がりでした。


I Love You Too ーKing Reguyth & MNEMO
(Composed in 2000 / Re-recorded in 2020)
掲載終了


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リクエスト承りました

昨日はまたもPretty Maidsのカバーを所望する方多数(16人)。
そして次には「がっちゃん」のことを書いたページにある我が歌(降りてきた順では
第1番目の歌)であるThe Well of Insanityで12人の方。

お応えします。

Pretty Maids All in a Row ーThe Eagles (Walsh & Vitale)
Cover by MNEMO
掲載終了

The Well of Insanity ーKing Reguyth & MNEMO (1976)
Re-recorded in 2021
掲載終了

Street lights attract those wanting to waste time
I might be able to find one
To share this feeling with

Though I know what I have got to live for
I still get bored to live this way
No matter what I do

It could be her or him or their shadows
I just wanna see myself sinking fast
Into the deep well of insanity
Now a full moon has appeared



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ふさぎ込みつつ求めた笑い

https://mnemosyneoforion.blog.ss-blog.jp/2015-10-17-2

昨日、音楽以外のページで突出して(8人に)読まれた『トーホグマン第224回』だ。
大河ドラマの関係で頼朝や梶原景時というキーワードで訪問されたものか。
7年ぶりに私も今読んで大笑いした。

このとき、私は白内障がどんどんと悪化しつつある中にいた。
父、義母、長兄、母、従妹と相次いで失って、心が弱りに弱ってもいた頃だ。
那須与一を西那須出身のU字工事の益子君のように描いているが、
気が塞ぐ中、笑いを忘れないでいられたのは彼らの漫才のおかげ、
そして柳家喬太郎さんの落語と大沢悠里さんのラジオ番組のおかげだった。

ある日突然見える世界が霞みまくっていることに気づいたのは2014年9月のことだった。
23日金曜、その日松本市で高3の生徒さんへの英語の授業があって、
まだ無人の教室に入って灯りをつけると、白い壁がぼやけて見え、
テキストの文字を見ると老眼鏡をかけても判読が難しくなっているのだった。
突然だった。

松本に泊まって翌24日、午前中に小学生と中学生をお教えしに再び教室に行ったが、
もちろん前日と同じ目の状態であり、ショックを抱えたまま東京に帰るあずさの車中で
御嶽山の噴火で多数の死者が出ているというニュースを聞き、再びショックを受けた。

塩尻から松本間のJR東日本の鉄道は篠ノ井線という。終点は長野市篠ノ井駅だ。
塩尻から東京までが中央東線ということになるのだ。
その塩尻からは中央西線も出ており、これはJR東海に属し、名古屋が終点だ。

その日の昼過ぎ、塩尻に停車するあずさに乗り、その塩尻からそう遠くない南西に
御嶽山は在って、私がよく見えない塩尻駅の窓外をぼんやり眺めながら
窓際の席に座っていた頃、多くの人が御嶽山山頂付近で噴石に直撃され、
地獄絵図の状態だったのだと後に知って、私の心の鬱屈はこれ以上ないと思える
ほどのものになってしまった。

その後目の不調ばかりか胸部や背部に痛みを感じ始め、
父母、義母、兄、従妹を追うことになるのかと恐怖に苛まれ、
そうだとすればその「過酷な運命」に向き合うことができず、医者に行くのが怖く、
上で書いたようにひとときの心の慰め=笑いを求めたのだった。

『トーホグマン第224回』、よくぞそんな折に書けたものだ。
我ながら感心してしまった。


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Receding or Returning? Either is OK

集団的暴力はなにもウクライナだけで振るわれてはいない。
しかし明確に国対国の戦争という集団暴力行為は多分今はここでしか起こっていない。

ヨーロッパで戦争が起こるとはほとんどの人が予期していなかったから、
衝撃が大きかった。

そして当事国のひとつが大量に核兵器を保有しているのだから深刻度は計り知れない。

核抑止力というものなどないと断言したいところだが、一定の力はあるに決まっている。
仲が非常に悪いふたりがいて、両方ともに銃を持っていたら、
一方がもう一方を殺そうとするときは自分が撃たれてしまう危険を冒さねばならず、
それは相当に抑止力になる。
それでも、不意を衝いたり、綿密な計画のもと反撃がまずない状況で撃つことはできる。
また、自分が撃たれてしまう危険などどうでもいいというような自暴自棄や
精神の錯乱があったなら、やはり銃弾は放たれてしまう。

銃と核兵器を一緒にするなと言われるかもしれないが、
引き金を引くのとボタンを押すことに大きな違いはないし、
後者は大量殺戮につながってしまい罪悪感が半端ではないのだからやはり違うと
言われても、自暴自棄や精神の錯乱がその国の最高権力者にあれば同じことだ。

つまり、核抑止力は絶対ではない、ということだ。
ある程度有効というところで「大国」たちは「最終兵器」を持っているにすぎない。
彼らは「無力とは信じたくない」のだと言ってもいいかもしれない。
つまり核兵器は信仰なのだ、と私は言いたい。
殺傷力がある破魔矢みたいなものだ。

*

プーチン大統領がこう感じてくれていればとー

I Hope I Won't Be the Same
by King Reguyth & MNEMO (Composed in 2006, Re-recorded in 2021)
掲載終了

I hope
Somewhere in the city
There's a place where I can be appeased
'Coz I've made up my mind to love our lives

I hope I won't be the same
I hope I won't be the same

Light
fades in the west
And my prayer melts into the rosy sky

Are you there?
Receding or returning?

I hope I won't be the same
I hope I won't be the same
I hope I won't be the same
I hope I won't be the same


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