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I've got a feeling that keeps me on my toes

パンちゃん(Puncinoくん)から奮起を促していただきました。
パンちゃんはガリアン・ワールドのカバーをNet上で聞かせていただいてからの
知己であって、もう知り合って15年近くになるんじゃないか。
節目節目で「Keep rocking」と言ってくれる得難い後輩ミュージシャンです。

コロナ感染者が東京で2桁にまで落ちたら、ライブ演奏、やりますか。

企画して実行までの時間が乏しいかもしれないけれどね。
すぐにまた8波だ、9波だとかとなってしまうかも。

若い人は罹っても概ね大したことはないらしいけれど、私みたいにもう少しで高齢者
というような輩にはやはりいつまで経っても怖いのです。

*



Paulがすばらしい企画を披露してくれました。
ファンたちは感動感動で泣くよりありません。

しかしまあ、「後期高齢者」のPaulがここまでやるって、戦慄ものです。
アメリカのスポケインでのコンサート、もうコロナなんてどうでもいいのかな。
大会場だからできることなのかな。

Paulの歌唱・・・
もう全く往時の声が出せず、それが残念。

あっしもそうなるのはむろん必定、時間の問題。
さあ、最終歌集を編む日々を続けよう。


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籠る歌びと、我

今月27日までに第6波でコロナに感染し、自宅死した方が555人、
内39パーセントがワクチンを2回接種済だったという。
接種歴不明は38パーセントというから、もどかしい調査ではある。
やはり70歳以上の高齢者が79パーセントを占めており、突出している。

https://mainichi.jp/articles/20220427/k00/00m/040/376000c

むろんこの数字は自宅死された方々についてのみのこと、
入院されて亡くなった方については示されていない。


コロナ慣れしてしまった世の中、と私には見えるがどうなのだろう。
しかしこうして厳しい数字が出てくる。
先日触れた知己たちの小さな「ライブハウス」での演奏パーティーだが、
その後どうなったであろうか。
もちろん心から無事であることを祈っているし、後日何事もなく皆が過ごしていることを
望むけれど、たとえそうであっても、無謀なこととして参加を断った自分の判断は
間違っていないと確信している。

私は本当に家族以外だれとも会っていない。
もうゆうに2年以上だ。
こういう「晩年」を過ごすことになるとは夢にも思っていなかったが、
うつしうつされる場面を極力避けてきたことについては後悔がない。

ゆるく、自分が日々感じ、思い立つ何かを歌にして、
世田谷の住まいを庵のようにし、和歌や俳句を詠むようにsongsを録っていこうー

それだけだ、今は。


*

追記

今TwitterでCarlos名のユーザーがGeorgeの晩年写真と共に以下の彼の言を
引用していた。

"I’m really quite simple. I don't want to be in the business full time,
because I'm a gardener. I plant flowers and watch them grow.
I don't go out to clubs, I don't party I stay at home and watch the river flow"
~ George Harrison

驚き、また微笑ましく思った。




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2022 卯月雑記 2

世界の軍事費が、2001年からの20年間で倍増したそうだ。
そのお金はもっと<人として正しく>使えたはずだ。
青臭い、お花畑な話をしていると嗤う者は嗤っていればよい。
ただ、「人として正しく」とは書いたが、
その「人」というのは、武器を持たなければ済まず、
殺し合いをせねばならない業を背負った生き物かもしれない。
とすれば、正しく金を使ってきたのかもしれないね。(皮肉)

*

ちょっと前にNHKの歴史番組で藤原不比等を扱っていて、見ていたら、
彼は「ふひと」という名を最初は「史」という漢字で記していたという。
朝廷の文書作成や管理、事務を担った(=史)百済からの渡来人との交わりが
濃厚だったというのだ。

なにしろ特に奈良時代は朝鮮半島からの「渡来人」たち無しには成立しなかったろうと
思えるほどにその影響は絶大だった。

Twitterで「岸田総理の辞任を求めます」というハッシュタグが立ってそのtweetsを
読んでいたら、韓国との関係正常化を岸田さんが打ち出したことに反発する
反韓の人々のものが主だった。

以前にも書いたけれど、韓国が嫌いな人々というのは、自分はその国の民となんら
関係がないかのようにその民族の血を貶めるのだが、それが不思議でしょうがない。

私の場合、父母ともに少なくとも何代も続く會津と中通りの人間であり、
かなり<純粋な>日本人だけれども、古墳時代からの混血もなかったと言い張ることなど
全く不可能だ。

嫌韓の最たる人は、自分には縄文人の血しか入っていない、大陸からの渡来人の血など
一滴も入っていないなどと主張するのだろうか(している人も現にいたが)。

そんな「日本人」を見つけることは、純粋なネアンデルタール人を今見つけることに
匹敵するほどむずかしいはずだ。
つまり、不可能だ。


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紫陽花のこと

「紫陽花」の歌、多くの方にお聴きいただきました。
ありがとうございます。

今からちょうど20年前、私は北の丸公園の紫陽花と<付き合って>いました。
以前にも書きましたが、北の丸は雨の日だとほぼ独占できる時がありました。
いくら皇居の隣の、環境省管理の国民公園でも、雨の日にそこを徘徊する者はほぼ
皆無でした。

「hydrangea」は「水の器(カプセル)」と訳せます。
「水」は当然として、「器」とは種の形状からの命名らしい。

會津の我が家の庭にも紫陽花が母により育てられ、梅雨時に複雑な色合いで
咲いていたもので、幼稚園生の頃、その美しさを絵にした憶えがあります。
また、デンデンムシもよくその葉を這っていたものです。

昨日の記事に掲げた写真の紫陽花は義父が育てたもの。

紫陽花という当て字は見事ですね。
雨の暗い日に紫は弱い陽の光を集め、鮮やかさを増します。

もう走り梅雨のような日々。
庭の紫陽花もどんどん成長しています。



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あじさい

DSC04679.jpg


Hydrangeas
Words & Musicー King Reguyth and MNEMO (2022)
Performed by MNEMO
All Rights Reserved

掲載終了

Hydrangeas
start to weep when they see me cry
Knowing what I’ve come here for in the rain

Under the gray clouds
the flowers are shining so bright
Telling me gently to get over my pain

Hydrangeas stop me from dimming out
They always tell me what life is all about

There’s no one around
I’m hearing no sound
In their pity I’d rather drown


紫陽花

紫陽花はわたしが泣くのを見ると嗚咽し始める
なぜわたしが雨の中ここへやって来たかを知っているのだ

灰色の雲の下
紫陽花はとても明るく輝いて
やさしく苦しみをのりこえよと言ってくれる

紫陽花はわたしのいのちの光が消え入りそうなのを止め
生きることの意味をいつも教えてくれる

周囲に人はなく
何も聞こえない
紫陽花の慈しみにわたしは溺れてしまいたい


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銀河の数2兆、賢治さんもびっくり

NHKBSの賢治さんの番組を見たときに、ナレーションで「現在銀河の数は2兆個と
考えられている」という話に吹っ飛んだ。

私が宇宙に興味を本格的に(当社比)持ち始めた29歳のときには、
「わたしたちの銀河には2千億の恒星があり、また銀河も2千億ある」という記述を
いろいろな本で見たわけだが、その従来説の10倍の数で銀河が存在すると聞けば、
宇宙の文字通りの<底知れなさ>に、もう、何が何だかわっからないのよ〜と
先代小さん師のように歌ってしまう。

その2兆あるという銀河に、もし、わたしたちの「天の川銀河」と同様、
地球という知的生命を宿す惑星が少なくとも1個あるとして、
そこで宮沢賢治のように宇宙全体の幸福を祈りながら銀河、鉱物、動植物に触発されて
物語を書く生命体が少なくとも1個体生まれるとしたら、
なんとこの宇宙には2兆人の宮沢賢治がいることになる(?)。
稀代いや不世出の童話作家で詩人がなんとも<ありふれた>存在になる!

だからど〜した。

条件の良い星野が広がるところでは、そして観望者の視力が良ければ、
アンドロメダ銀河(距離250万光年)と、南半球では大小のマゼラン星雲(銀河)
(大は15万光年、小は19万光年)が肉眼で見られる。
(300万光年のさんかく座銀河は見える見えないの議論がされている。)

私は29歳の時、多摩川でアンドロメダ大星雲を視認したことがある。
250万年前に銀河を出た光子が私の網膜に当たり、その星の大集団の像を結んだという
事実に興奮して、そして涙したものだ。

おもしろいよね。

途方もないスケールの話をしていると、本当に、人間のやることなすことについて
大笑いして、「畢竟して何の用ぞ」と言いたくなってしまう。

オイラだけか?


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2022 卯月曇天日記

録音作業を断続的にやっております。

世に問おうなどというようなことでやっておりません。
私は、何度も言いますが、ただの歌うたいであって、
正式な音楽教育を受けた作曲家でも、楽器演奏家でも、編曲家でもありませんし、
またプロフェッショナルな録音技術やミキシング技術があるわけでもありません。

なんだよ、MNEMOの新曲はこの程度かと、言われてしまう可能性大。
ま、そんなもんですよ。

おら、歌うたいだー
そう思っている以上、歌っているだけでごんす。

*

今東京はどんより。

気分も全く空模様と同じになりそうですが、まあ、テキトーに今日も断続的に
歌うたいの<本分>を全う(?)しましょう。


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値上げラッシュの今に

日本がヤバいというのはもう多くの国民が感じていることだろう。

金融や経済のことなど門外漢もいいところだけれど、凄まじい勢いで円の価値が
下落していることが何を意味するかは小学生にだって分かる。
輸入品が高くなってしまう、と言うことだ。
(輸出品が海外で買いやすくなるが、その恩恵は一般人にはほぼ関係ない。)
ただでさえ化石燃料が高くなっているのに、この円安でさらに手酷いことになっている。
光熱費の値上がりは、本当に請求書を見て唖然とするレベルだ。
南米なんかでは暴動レベルの高騰だ。

円安の最大原因は政策金利の常識を超えた低さ、金融緩和のやりすぎだ。
しかし日銀、政府は「じゃあ、金利上げましょう、引き締めましょう」とはならない。
それどころか、従前通りで行くとはっきり態度を示した。
どうしてか。
ここで政策金利を上げたら、大変なことになってしまうからだ。
融資を受けている企業や個人の借金が膨らんでしまい、ただでさえコロナ禍で業績が
悪いというところが多いのに、この上返す金が増えたらもうデフォルトだ。

結果円安はこれ以降も進むしかなくなった。
1ドル200円は確実という人もいる。
ずっと1ドル100円台前後などという時代を過ごしてきた者として震撼する。

日本が全ての分野においてとは言わないまでも多くの分野で自給自足できるならいい。
まず、食料自給率は2020年で37パーセント(カロリーベース)だ。
一次燃料自給率は11.2パーセント。

ため息しか出ない。



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畢竟して何の用ぞ

人がいい気になっているのを見ると、まあ、やはり気分が悪くなるもんだ。

某企業の常務執行役員が品性下劣な発言をして馘になった。
某大学の受講料の高い社会人講座に講師としてトップバッター起用されて、
いい気になっていたに違いないのだ。
なにしろ「一流企業」の比較的若い常務様なのだし、
今の地位に就いたのは、己の優秀さの結果であって、それを自慢話方々披歴してやろう
などとすけべ根性を出したに相違ない。
そして己の品性下劣を調子に乗って、いい気になって、曝け出してしまった。

私だって例外じゃない、いい気になったことがある。
やはり若い頃にそういうことが顕著にあったと自覚する。
むろん企業のトップの方へ行ったなどという<優秀な事績>を成したわけではない。
某私立有名大学の講座講師に招かれたはずもない。

言っておくが、ガリアンの歌が売れたとかで天狗になったということはない。
何度も書いてきたが、それは重圧になりこそすれ、増長の種にはならなかった。

歳をとればとるほど、私は慎重になっていった。
その慎重さももちろん<当社比>のことではあるけれど。
やはり、読書が進み、どんどんと教養ある人間への憧れが増していったからだ。
本物の教養人はいい気になど絶対にならない。

この種の話を書いていると真っ先に思い出すのは、紀野一義先生の御本にあった
「畢竟して何の用ぞ」という『正法眼蔵随聞記』にある言葉だ。
簡単に言ってしまえば、「お前はギャアギャア言うけど、だから一体それがどうした」
と言うことだ。「So what?」だ。

三十代にこの言葉に出会って、私はシュンとした。
道元禅師にもし、私が信念持ってやっていることについて「畢竟して何の用ぞ」と
言われたとしたら、整然とは答えようがない。
賢治さんのように、「ほんたうのさいはひ」の追求のためですと言えたら凄い。

「畢竟してその『ほんたうのさいはひ』を追求する用は何ぞ。」

みなさんならどう答えますか。



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神仏に戒められても

人殺しが戦争では双方にとっては戦果になる。
賞賛されることになるのだ。
言い尽くされてきたことだが、尽くされてもホモサピエンスは戦争をやめない。

ウクライナ側の報道による「戦果」がYouTubeで多数見られる。
(ロシア側からのものはない。)
さすがに殺される兵士の顔などが確認できるようなビデオはないが、
コンピューターゲームとなんら変わらず画面上で照準を合わせ、
ボタンを押せば、生身の人間が乗り込んでいる戦車などが木っ端微塵になり、
積んでいた砲弾に引火してハッチが吹き飛び、猛烈な火柱が立つ。
戦車の中にいる数名の兵士の丸焼きだ。

そういうビデオを見て、ウクライナ側の人間には狂喜する者がいる。
コメントを見れば一目瞭然。
ロシア側の人間にだって、自国軍の「戦果」のビデオを見れば狂喜するものが
いるに違いない。

同じ東スラブ人同士で、いいや、同じ人間同士で、
命をかける価値があると信じる「大義」のため、殺し合う。

しかしその「大義」より憎しみの方が人殺しへと駆り立てることが往々にしてあろう。
戦争とはそういうものだ。

キリスト教では七つの大罪のひとつ、仏教でも「三毒」のひとつである<怒り>。
戒められても、ホモサピエンスは殺し合いをやめない。


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二面あつて好いぢやないか、抔と言ふ修羅の私

(宮沢)賢治さんが日蓮宗系の国柱会に入り、本郷に暮らして会の活動に従事したことは
よく知られている事実だ。
お父上が熱心な浄土真宗の門徒であったにも拘らず、賢治さんは真逆の教義とも言える
法華経に深く帰依したのは、本当に単純化して言えば、
「絶対他力」でなにしろ阿弥陀様の御本願(すべての衆生を救うこと)に信をおき、
あの世へ往き、あの世で生きるためただその名号を唱えよということではなく、
この世を自ら菩薩となって浄土にする心意気を持ったということだったからだ(と思う)。

「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」

彼の『農民芸術概論綱要』の「序論」にあることばだ。
こんな途方もないことを考えて、己の学問を活かしきってまずは近隣の農民たちの助けに
なろうと実践するとき、それはそれは心細いことも多々あったろうから、
同じ夢を岩手山で語り合った保阪嘉内氏をどれほど恃みにしたことだろう。
そして保阪氏が物理的ばかりか精神的にも遠くなってしまったと感じたとき、
どれほど賢治さんは悲しかったろう。

だいたい、彼は「ひとりの修羅なのだ」。
妹を兄弟姉妹愛を超えてしまうほど愛している自分に気づき、
それを己の「諂曲(てんごく)」性のひとつにしたのではないかー
もちろん保阪氏への男同士の友情を超えた感情も。
そういう自分に怒る修羅!

この「諂曲」ということばの解釈を巡っては諸説ある。
NHKの『映像詩 宮沢賢治 銀河への旅~慟哭の愛と祈り』を制作した今井勉氏は、
東大講師でもあった<真宗>僧侶島田大等の『妙法蓮華経』での解説にある
<諂曲」の字の右に「てんごく」とルビを付し、左側に片仮名で「ヨコシマ」とカナを
当てている。すなわち「邪(よこしま)」である。
「諂曲心不実」は「邪にして心不実なり」だ>とする説に合点している。

私も賛成だが、「諂曲」の「諂(へつら)い」についてはその字義どおりでも
よかろうとも思う。
特に盛岡高等農林を退学させられ、故郷韮崎へ帰ってしまった保阪氏へは、
自分を忘れ、「捨て」て欲しくないからと賢治さんは相当に諂ったはずだ。
(「捨てるな」とは実際に賢治さんが保阪氏へ訴えている。)

そんな自分ー

世のすべての人の幸いを願いながら、しかし己を「諂曲」の人ともしなければ
ならない二面性あるいは自己矛盾に賢治さんは瞋(いか)っていたのだろう。



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あらためての(ゆるい)決意

大昔に買った放送大学のテキスト『宗教への招待』は、文学博士(京大)で
大阪大学名誉教授、しかも俳人の大峯顕(あきら)先生によるもので、
そのテキストを読みながら総武本線の各駅停車に乗っていた2003年頃の夏のことを
思い出す(そのことについては過去にもここで書いた)。

その電車内でのことー
「宗教と言葉」と言う大きな章の中の「言葉の根源」という小章で、
Heideggerの『ヘルダーリンの詩の解明』に言及しているところを読んでいる時、
電車のドアが開いた。南酒々井駅であった。
すると熱い空気の流入よりも先に車内に入って来たのはけたたましいとも言うべき
ほどのヒグラシによる大合唱の声だった。
私は深く深く感動した。

大峯先生はWikiによると2018年逝去されたようだ。
哲学者、俳人、そして浄土真宗僧侶としても活躍されての87年の生涯だった。
その先生による先述のテキストを数日前から再再々読している。

ほろほろと山吹散るか滝の音
六月や峯に雲置く嵐山

これらは芭蕉の句であるが、先生はこれこそ「スイスの批評家マックス・ピカート(略)」
「の言ったことが本当であることを証明」する句の例だと言われるのだ。
「言葉がじっさいの物を宿すこと」の証明だと。

私には父の助言あって、

蜩(ひぐらし)の聲止みてより風一陣

という句が三十路に入ってから降りて来ていたが、
大峯先生もピカートも、Heideggerも、よい詩であると認めてくださるだろうか。
南酒々井駅で私はヒグラシの大合唱に打たれ、己のこの句を思い出してもいた。
そして大峯先生のご本を抱きながら思ったー
こういう詩歌を、singer-songwriterとしても追求しなければと。

南酒々井駅でのこの体験は私が四十代半ばの頃のこと。

膨大な時を経て、今新たにその決意を噛み締めている。
なにしろ時間がそうないのだから。
でも、焦りはしませんよ。(笑)



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Keyがkey

数日更新をしなかったけれど、体調を崩したとかではありません。
単純に、書くことがなかったということでした。

また、仕事がある日は、やはりそちらに気がとられるというのがあります。
特に新年度から担当させていただくことになった中1の8人には最良の授業をと
意気込むところがあります。
小学校から英語を始めている世代ではありますが、やはり、英語の文法的成り立ちに
ついて理解していかねばならない段階に入った彼ら彼女らに、
いかに<りくつ>部分に興味を持ってもらうかは、いつ中1を担当しても他の学年に増して
気を配るべき課題になるのです。

音楽の方は、新曲の種をどう発芽させるかの段階のままですが、
今は何しろkeyをどうするかが課題になっています。
ギターで弾きやすいkeyですと、かなり高い音程で歌うことになります。
それを地声で歌うか、それともファルセットを多くして歌うか、
言うまでもなく全く楽曲の印象が違ってきます。
もちろん地声でもっともフィットするkeyもあります。
そちらの方がいいのかもしれないし、そうでないかもしれないしー
いくつも試せばいいではないか、ということですけれども。

今日はそのことにつき、できるだけ時間を使って当面の結論を出そうかと思います。


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<点睛>を欠き、<人後>に落ちる

昨日の天声人語で、「完」という漢字の成り立ちについて白川静説を紹介していて、
今のこのコラム執筆者は、過日中村メイコによる『上を向いて歩こう』の歌詞についての
裏付けない説を取り上げたこともあり、相当不勉強だと言わざるを得ない。

「完」には、白川に拠ると、「凱旋」の意味がある、というのだ。
体がまったき状態で家に戻ってくることを「象形」していると。
しかし、そんな説を論う学者は彼をおいて他にはいまい。

藤堂博士らは、「元」が象形で<丸いあたま>を意味する(元も丸も「がん」)し、
円の、「全体に行き渡って欠けたところ(欠け目)がない」イメージから、
「完」の字もperfectの意味を持つようになったとするのだ。
<うかんむり(=家屋のイメージ)>は「元」という字の意味することに具体性を
持たせるために付け足したもので、それにより「家の周囲を取り巻いて垣をめぐらす情景、
あるいは、家の上に屋根をめぐらす情景」が浮かぶようになった、と。

白川は「元」を頭ではなく、首だとも主張しており、端から間違っている。
首が丸いというイメージは出ようがない。
そして<うかんむり>と<首>とで<兵士が家へ無事に凱旋する>姿を勝手に
イメージしたらしい。

白川漢字学がすべて誤謬などとはだれも言っていないし、
私のような門外漢がいろいろ言ってもそれは他の学者からの受け売りだけれど、
それでも、あまりに白川さんの学説には勝手な思い込み、瑕疵が多いのは明らかだ。

天声人語子はもっと裏取りをしなさい!



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Das Manの群れからズレまくってきた男

NHK・ETVの『100分de名著』は今Heideggerの『存在と時間』を扱っている。

人は不可避的に、あるいは本質的に、不安(死という未来に対する)と一体なのだ。
2001年辺りだったと思うけれど、彼の言説を読んでいて首肯していると、
数年後に曹洞宗僧侶の南直哉老師がHeideggerと<同じようなこと>を言っている
著作(数冊読んだ)に出会ったのだ。

その老師(と言っても私と歳はほとんど変わらない)が随筆の最後をこう書いて
締めている。

*引用はじめ*

昔中国で、高い木の枝の上で坐禅を続ける老師がいた。
通りかかった人が見上げて、「ずいぶん危ないところで坐禅してますなあ」と言うと、
老師曰く、「そうかな。自分には歩いているアンタのほうが、ずっと危なく見えるがね」

この老師は、木の上が平気になったから、下を歩いている人間の足取りの危うさが
見えるのではないだろう。
そうではなくて、木の上の危うさがつくづく身に染みているから、下を歩く人間の平気さ
加減が恐ろしいのだ。

木の上に登る必要は毛頭ないが、道を歩くばかりか、板に付き過ぎて坐りこむのも、
実は危ないのではないか。
この先の我が身と人々の行く末を思うと、私は解消しない自分の「ズレ」を
少々いとおしく思う今日この頃である。

*引用おわり*


「頽落」した「das Man」の幸福の危うさ。
「不安」を見つめまくって、救済よりも不安と渾然一体になることを目指した
(おそらく)「Dasein」の老師。

*

な〜んの関係もないけど、中学時代大好きだったBadfingerの、
その中でも一番好きなBaby Blueのカバー、聴きたくなったんで掲載します。

掲載終了

西日射す自分の部屋で夏、発汗発汗の中、百万遍この歌を歌いましたっけなあ。
成仏しそうになりましたっけ。

今日の東京、暑い。



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歳を取っても悟りに遠し

誰でも歳をとるのは当たり前ながら、そのことを強く実感する時に私の脳裏に浮かぶ
言葉は「無様だ」に尽きる。
とは云え、その後に落ち込むか、笑えるかの違いはある。

きっと私のように、多くの人は自分の容貌容姿の「中央値」みたいなものを、
普段は意識するともしないとも言えぬ曖昧な感じで、持っているに違いないのだ。
その「中央値」は年々歳々不正確になっているのに、あまり修正する気にならない。
だから、不意を突かれて(例えば己の<最近影>を思わぬ形で見せられて)
大修正の必要これありという事実に直面して狼狽する。

『科捜研の女』が今シリーズ終了を以て<さすがに>本当に大団円を迎えた(はず)。
その理由の筆頭、いやおそらく唯一無二の理由は、沢口靖子さんが「もう年取り過ぎて
あかんわ」と思ったことに相違ない。実生活上も、俳優活動上も、もはや「榊マリコ」を
演じるのは無理だと判断したのだと思うのだ。

それは老化ということだけれども、体力の限界とかではなく、おそらく容色の衰えを
一番に気にしたせいだと私は勝手ながら思っている。

もう少しで57歳になるという彼女ー
おそらく多くのファンなどは奇跡的に若い、美しいと言うのだろうけれど、
老いの自覚はなにしろ本人専一の事柄だ。


「土門刑事」役の内藤剛志さんはもう少しで67歳、「藤倉刑事部長」の金田明夫さんは
67歳、科捜研所長役の斉藤暁さんは68歳、府警本部長役の西田健さんに至っては
なんと77歳、喜寿なのだ。

「マリコ」さんを囲む先輩や上司は既に定年を遥かに超える年齢になっていて、
同僚たちの中宇佐美研究員の風間トオルさんはもうすぐ還暦、
新人を入れてしまえば年齢ギャップは覆いがたいほどになってしまう。
(「若い」同僚の二人は、実年齢30歳と31歳だ。)

この無理を通してこれたのは、偏に、そんなことはどうでもいい、おもしろい番組で
あり続けているのだからどうかこのままと願うファンたちのおかげだ。

私もその一人だ。

その一人として、入れ替わり番組となっている『捜査一課長』シリーズも、
『科捜研』に全く劣らず俳優たちの年齢問題を抱えていることを憂慮する。

内藤さん、金田さん、本田博太郎さんは71歳だ。
私が好きな板木望子(いたき もちこ)警視役の陽月華さんは41歳だ。
ちなみに斉藤由貴さんは55歳だという。


誰もが永遠に続くドラマなどはないと知りながら、それでももっともっとと言うー
私もだ。

アホである。



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2022 卯月雑記

新曲の種ができつつあって、今日はそれを<育てる>作業をー
気が向いたらやるか。

東京は初夏の陽気で、ハナミズキが桜と交代しつつある。
ソメイヨシノと違って、ハナミズキは早咲き遅咲きがはっきりあるなあ。
庭にあるのは近隣では最も遅く開花する。
蕾もまだ心許ないほど小さい。

*

国はもう感染については事実上の野放し、集団免疫路線に入ったのだろう。
後遺症はオミクロン株が最もきびしいという指摘をする医師もいる。
もちろん高齢者のコロナ死は毎日報告されていて、
しかし比較的若い人たちは死に至るまでのことはないようだから、
全国で毎日5万を超える感染者が出ようが、もう自己責任で経済活動、
消費活動をしてちょうだいね、ということになったようだ。

比較的若い世代は、後遺症を恐れないのなら、まあ、抑圧されていたこの2〜3年の
鬱憤を晴らしてもいいのだろうかね。
でも、高齢者はそうはいかないよ、絶対。
みんなとは言わないが、重症化する確率は若者のそれと比較にならない。
最悪の結果になる確率もだ。

*

ABEMAトーナメントの「エントリーチーム」のメンバー3人が決まった。
(もうだいぶ前に決まっていたが、昨日のオンエアがあって公表された。)
そのうちの一人は私の推しの棋士、黒田尭之五段だ。
終始自信を持って指していて、昨年度の決勝敗退の雪辱を果たした。

彼を推す理由は、唯一Beatlesファンであるという棋士だからだ。
しかも大好きな曲にDear Prudenceを挙げるという、
私にしてみれば感性的な同志なのだ。

冨田四段は頭脳明晰で、しかも関西ノリもある、好青年だ。
折田四段は苦労人、奨励会は三段で退会したが、編入試験を経て棋士になった。
アマ時代、銀河戦での7だったか8だったかの連勝は凄まじかった。
ただ、やたら歌い出して、しかもおもしろくない、うまくもないから、
いくら関西ノリだとしても、もうやめてんか、と言いとうなる。



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Forever Autumnについて再び

中学生の頃、日本でしかヒットしていない洋楽というのがいくつもあって、
大抵は「ああ、確かに欧米リスナーにはウケないだろうな」というような曲だった。

それでも日本の音楽市場は欧米ミュージシャンたちにとってはまさにドル箱で、
日本でヒットするということは実利一番ではあるが一定の名誉だったはずだ。

そういう例の中、Queenが日本でまずブレイクしたことは日本人リスナーの耳は
確かだということの証左だろう。



Vigrass & OsborneのForever Autumnは72年発表の私が大好きな歌で、
彼らの本国イギリスではヒットにはならなかったらしいが
(ただしThe Moody BluesのJustin Haywardが76年にリメイクしイギリスの
チャートで5位になったという)、日本では10万枚の売り上げだったという
(Wikipediaの英語版による)。

作曲は英国に帰化したアメリカ人のJeff Wayneで、作詩はVigrassとOsborneだ。
英国風のアレンジメントということになる。
それが本当に私の耳に、そして多くの日本人リスナーの耳に馴染んだのだ。
ここで歌われる英国の秋(WayneにしてみればNew Yorkの秋)、
その音と詩の表現は、日本人、特に関東より北(北陸を含む)に住む日本人の感性に
ピッタリ合うはずだ。

私が中学生としてこの歌に触れたとき、それはそれは深く感動した。
會津西部の秋の風情、情感を3000マイル離れた英国人が的確無比に音にしたのだ。

歌は失恋を嘆くものだ。

Like the sun through the tress you came to love me
Like a leaf on a breeze you blew away

木漏れ日のように君は僕を愛するために現れ
風に吹かれた葉のように飛んでいってしまった

My life will be forever autumn
Now you're not here

僕の人生は永遠に秋のまま
君がここにいないのだから


・・・大ヒットはしなかったかもしれないが、珠玉の名作だ。



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山吹咲いて

The Eaglesについての記事を上げたのだが、気が変わった。
もう読んでしまった方、すみません、お忘れください。

*

将棋名人戦が椿山荘で行われている。
副立会人の佐々木勇気七段が昨日初日対局後椿山荘に泊まって、
午前五時半鳥の声で目を覚ましたそうだ。
あまりの「非日常」に感動し、ずっと居たいのだそうで、気持ちはよく分かる。

昨日私は夕方前に自転車乗りをして、成城のある公園で山吹の花を見た。
山吹は、椿山荘の丘の下にある新宿区に属する町の名前にもなっており、
古今亭志ん生に拠れば、『道灌』でそここそが太田道灌と賤の女(しずのめ)が
出会ったところということになる。

私は成城の丘の縁に立ち、遥か多摩丘陵を望みながら、すっかり住宅街になってしまった
山吹町にはなくなってしまったが、椿山荘の丘にはしっかり生き残っている(?)
山吹も咲いているだろうなと思った。

漱石公園(漱石終焉の地)を含め、
私が謂う「漱石テリトリー」にも長く行っていないなあ。

砂土原町に住んでいた頃、テリトリー散歩ではPretty Maids All in a Row
しばしば聴いた。
今、自分によるカバーがある。
それを聞きながら歩いてみたいな。
近々。




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Sooner or later

久しぶりに昨日アクセス状況等を見てみたら、visitor数がかなり落ちていた。
え?
落ち込む?焦る?
「ありゃりゃ」とは思うけれど、「しゃーねーべや」と。
「本来よぉ、俺のブログなんぞ特におもしれはずねーあがらよ」と會津弁で。

少し驚いたのは、EaglesのDesperado (Reprise)という地味な曲のカバーを発表した
ページに7人さまが訪れていたこと。

お応えします。

〜音源掲載終了

*

この歌を何度も何度も聴きかつ歌っていたのは主に練馬の羽沢居住時代。
住宅だらけのあの界隈で、広い空を見たいと思っても、板橋区の都立城北公園まで
相当歩かねばならず、「Well, the stage was set The sun was sinking low down」
という歌詞をいわゆる1Kのコーポで歌いながら、「ああ、夕陽を見たい」と思っても
事実上無理。

Go down, Bill Doolin, don't you wonder why
Sooner or later we all have to die
Sooner or later, that's a stone-cold fact

そのときは20歳くらいで、上の歌詞などに実感はなかった。
死は遠く、実際それからこうやって40年以上生き延びている。

そしていよいよ「Sooner or later」が切実に響くー
切実に歌える。



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George's Instant Karma

Georgeの、ビートルズRevolverに収録されたI Want to Tell You
好きな曲で、特に中学時代によく聴いた。

ただし歌詞の意味がわかる歳になって、かなりどうでもいいことを歌っていると知ったが、
まあ、なんでも名曲レベルでなければいけないわけじゃなし、
ギターのriffはカッコイイし、E7のコードのところでルートの半音上(F)をぶつける
という異様な感じが病気っぽくて心がゾクゾク、ザワザワしたものだ。

Beatles Music Historyでこの曲の解説の中、こういう一節があるー

One line that may have been influenced by his then limited indoctrination into
Eastern beliefs is “but if I seem to act unkind, it’s only me, it’s not my mind.”
George later commented on this lyric: “The mind is the thing that hops about
telling us to do this and do that. What we need is to lose the mind.”
With that in mind, George changed the line slightly when performing it live
in Japan in 1991. “It isn’t me, it’s just my mind” he sings at this point.
However you slice it, for Western ears it definitely is “confusing things.”

これは非常に笑える。
私も高校生とかになって、
「but if I seem to act unkind, it’s only me, it’s not my mind.」
の部分が意味不明だと思った。
「でもボクがやさしくなさそうに振舞っているようでも、
それがボクってぇだけのことであって、ボクのこころではないんだ」とは?

1991年の日本での公演でGeorgeは上の後半部を、
「It isn’t me, it’s just my mind」
と歌詞を変え歌い直している。
「そりゃボクじゃなくって、単にボクのこころなのさ」と。

上の記事を書いた人はしかし、

「However you slice it, for Western ears it definitely is “confusing things”」
「どうその歌詞を解釈しても、西欧人の耳には間違いなく面食らうものだ」

と書いているが、東洋人の耳にもそうだよな、と。


GeorgeはなにしろRevolverやRubber Soulでは、
この歌とIf I Needed Someoneの2曲で、群がって押し寄せる女性ファンへ
メッセージを伝えているのだ。
後者についてはもう過去の記事で書いたから措いておくが、
I Want to tell Youでも、グルーピーとの経験をかなり直截に歌っている。

Georgeもインド思想に染まりかけの頃で、かなり『カーマ・スートラ』に影響を
受けていたのかもしれない。


I Want to Tell You ーThe Beatles (George Harrison)
Partial cover by MNEMO
掲載終了

If I Needed Someone ーThe Beatles (George Harrison)
Partial cover by MNEMO
掲載終了



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チューリップ

東京は今日も雨、肌寒さが一層募る。

今日から新年度スタートということだが、どういう1年になるだろう。

庭に去年植えたチューリップのうち、プランターのものはまだ蕾も出ないが、
地植えにしたものは開花して数日経った。
色とりどりのチューリップを見ていると、この色の素、すなわち色素が、
同じ一種の花にどうしてこんなにも多く宿るのかとあらためて驚嘆する。
赤、黄色、紫、黒みがかった紫、白、黄色に赤の斑入りなどなど、
どこからその色素をめいめい手に入れたのかと訊きたくなる。

チューリップは私の脳の一番奥隅にある花の記憶第一号の花だ。
幼稚園からの帰り、どなたかの庭先に咲く色とりどりのこの花にチビながら感動し、
後年小学生になってから水彩画と云えばチューリップを描いた。
今でもどう描くか、手指が覚えている。

黄の帽子 
逆さにかざし 
チューリップ

などと一句。



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女流Y棋士の絶望

昨日からかなりの時間考えていたのは、女流棋士Yさんの突然の連盟退会についてだった。
この人は女流棋士歴6年、女流一級で、通算勝率は最下位というようなことだった。
新しい道を見つけたとし、引退でなく退会(もうプロ将棋界とは関わらないということ)
するとTwitterで短く挨拶し、すぐにそのアカウントも消した。

彼女は「京大卒」という肩書きがいつも付いてくる女流棋士で、
それゆえ知性派という立ち位置を自然に(?)約束され、また確かに女流棋士としては
並外れた文才があったゆえ、観戦記者としても活躍し、また桃山学院大学で囲碁将棋の
講義を受け持つ非常勤講師でもあった。

ところが「本業」たる女流棋士としての成績は上記のとおり振るわず、
またここ数年はエントリー制の女流棋戦に参加しなかったりし、
「棋士」としての意欲を疑われるような事態にもなっていたらしい。

『赤旗』日曜版で彼女は「私はずっと怒っていた」というコラム記事を、
最近なのだろうか、日付は分からないのだが書いていたのだった。

「『好き』を仕事にする。なんとすばらしいことでしょう」と書きつつ、
「でも、どんなに好きでも仕事には苦しみがつきものです」とする。
「自由を求めて集中の海に潜ろうとしても、否応なしに私の『属性』が手を伸ばして
きます。ジェンダーギャップ指数120位の日本で『若い』『女性』として働く息苦しさ。
どけてもらえない足。『ひとりの人間』として見てもらう難しさを痛感」したと。


「女流棋士」とは、最近書いたばかりだけれども、頭脳ゲームの将棋においては
余計な制度上の存在だと言っていいと私は思っている。
確かに今は将棋における平等を達成するまでの過渡期ではあろうけれど、
だからと言って女流棋士という、本当の棋士制度では実力不足な者を、
プロとして認めていいのだろうか。
彼女らより強い圧倒的多数の奨励会会員が年齢制限や実力不足で退会せざるを得ず、
長年の努力を一旦は無にしなければならない過酷な現実がある中、
弱い者がプロとして脚光を浴びたり、高額賞金を得たりすることが当たり前で
あるはずはない。

そういう「逆差別」を当然として生きている女流棋士が多数派なら、お寒い限りだ。
だからいつまで経っても将棋番組の「聞き手」役で採用されるのが女流タイトルを
得るのと同等とも言えるほどの<女流棋士としての成功>であり、
どんなに年下であろうが男性棋士を「先生」と呼び、唯々諾々その「先生」のご高説を
伺っているのだ。

「聞き手」としてのソツのなさも大きいけれど、なにしろ男性ファンが圧倒的多数の
将棋界だから、女性としての魅力についても<公然と>云々されてしまい、
それが「聞き手」としての評価、延いては女流棋士としての評価にまで及ぶのだ。


辛口で知られる菅井八段が昔「女流棋士に負けるはずがない」と、ふざけんなよとも
言わんがばかりに公言していたことがあって、そりゃあ万が一にも負けないだろうなと
私は思ったものだ。彼はジェンダーギャップで言っていたのではない。
勉強量が違い過ぎるのだから、ということを言いたかったのだ。
ストイックなことにかけては菅井さんと永瀬王座は双璧かもしれない。

女流棋士を辞めたYさんは、逆差別などしてくれなくてもよい、
自分は集中し、その後の自由を感じるのが好きなだけ、そのために、棋士として
いられるために、菅井さんや永瀬さんのように研鑽さえしていればいい環境が
欲しかったのに違いないのだ。

しかし、女流一級程度の棋力でそんなことを主張しても笑われるだけー
研鑽を保障する資金は、「女流棋士」としてのイヴェントなどで着物を身にまとい、
中高年の男性ファンたちに<媚びる>ことで得るしかないのよ、
対局料だけでやっていけない、まして賞金など一切縁のない大多数の女流はね、
と言われるだけの話。

そして最終的には、逆差別があったからこそ「女流」という限定語が冠されても棋士で
いられる自分に結局絶望するしかなかったのだと思うー
自分の<若い・女性>という「属性」を偏重されることに嫌気を感じつつ、
しかし少なくとも女性だからこそプロになれているという事実への絶望だ。


囲碁では将棋ほど酷くはない。
女流棋戦はあるにはあるが、段位は絶対で、男性女性に関係がない。
確か女性囲碁棋士の今のところの最高段位は八段であるはず。
13歳で女流棋聖戦に挑戦することになった仲邑菫さんは現在二段。
二段は二段であって、プロ棋士としての最低段位初段から一段階上がったのだ。

女流将棋の2トップ、まずは里見さんも西山さんも三段でいいではないか。
昇段を目指したいなら、ある一定の基準を満たした後、四段試験を受ければ良い。
そうやって奨励会三段で終わった3人がこれまで編入試験に合格している。

「女流」などという冠をつける、つけられることを屈辱に思わない女流棋士ばかりが
多数派のままなら、きっと女流棋士制度はいよいよそれが抱える多くの矛盾を処理し
きれなくって早晩瓦解するのではと恐れる。



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第5回ABEMAトーナメント予想

ABEMAトーナメントのドラフト会議がようやくon-airとなった。

藤井竜王チームは彼と森内俊之九段、藤井猛九段。
全員が竜王のタイトル経験者ということになる。
猛さんの方は初出場でフィッシャールール未経験だし、レイティングも高くないので
少し不安が残るが、数年前銀河戦という早指し戦で優勝したこともあり、
3人の調子が良ければ優勝候補なのは間違いない。

対抗は、チーム斎藤と見る。(+木村一基九段、佐々木勇気七段)
三浦チームも強い。(+伊藤匠五段、池永天志五段)
チーム渡辺は近藤誠也七段が強いので、やはり上位に食い込みそう。
チーム佐藤天彦もいいところまで行きそう。
チーム永瀬ももちろん強いのだが、渡辺和史四段がどれほど行けるかだろう。
チーム稲葉は、爆発するかも。

予想

優勝 チーム藤井
準優勝 チーム斎藤
ベスト4まで チーム三浦 & チーム永瀬

将棋では能天気になれる。
ありがたい。


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2022 卯月朔日雑記

身内に昇進の報せがあって、「克己會」の友人たちにその喜びを分かち合ってもらいたく
その旨をLINEに書いた。
会員たちは皆元気で安心した。

本来なら祝賀会ということになるはずだが、なにしろ今そんなことは全く考えられない。

*

ウクライナのこと、プーチン・ロシアの侵攻につき、
いろいろと<学習>していくと、単純にプーチン・ロシアを悪玉にすることはできないと
いうことが分かってくるけれど、もちろん最初から事態は複雑だったに違いないと
思っていたから、驚きはない。

だからと言って、戦争を始めたプーチン・ロシアがより責められるのは当然だ。

早くこの軍事侵攻をやめろよ、プーチン・ロシア。

円安、原油高、さまざまな食品の値上げ、そして他にも首都高料金、保険料の
値上げなどなど、本当に国民は音を上げるだけだ。

流されてはいけませんよ、みなさん。
本当にほとんど何も有効な対策を打たないままの政権なら、NOを突きつけましょう!



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