実験・新形態小説 『ハイドレインジャ』〜第3部その20
ハイドレインジャ
第3部その20
俺は凛を抱き抱えて、なんとか凛の家にたどり着いた。
玄関のドアを開けようという瞬間、背後に温みを感じ、視線を少し脇に逸らすと、庭の紫陽花が陽光に照らされていた。
俺はその花弁には<すべての色>があると<ふたたび>思った。
気がつくと、凛も泣き腫らした目でじっと同じものを見ていた。
「俺、幼稚園年長のときだったか、母が咲かせた庭の紫陽花の絵を描いたことがあるんだ。あまりに色が豊かできれいでね。」
俺は玄関先で凛を抱えたまま言った。
「どうやったらこのすべての色があるこの花を絵の具で描けるかって、思ったんだね。確か賞をとったなあ。八幡くんという同級生と一緒に、會津若松での授賞式に行った。『特選』とかって書いてある賞状とペンテルの24色の絵の具を賞品でもらった。」
凛は、たまらず、という感じで俺の唇を求めた。
激しいキスの後、凛は、
「ユウの過去のすべてを見たい!」
と言った。
俺は苦笑したけれど、それはできるとも思い直した。
「俺も凛の過去を見たいさ。ハッブル望遠鏡が129から131億年前の天体を写した。そんな途方もない昔の光を、観測者は網膜に映したのだ。たかだか数十年の俺や凛の過去を見ることができぬはずはないように思える。俺の人生なら、60光年だかの距離にある惑星から地球を見て、會津の一隅を望遠鏡で観察してみれば、生まれたばかりの俺が、凄まじい解像度の鏡なら、見える。もちろん俺が家の中にいれば見えないけれどね。」
「その60光年離れた惑星に行きたい。」
「ハハハ。行ってずっと俺を<観測>していたら、凛が地球で生まれない・・・何を言ってんだ、俺たち。」
「Impossible is nothingよ。」
「どうした、ADIDASのコピーかい。」
「アスリートのことでしょう、不可能なことなど何もない。だったら私たち、DTsになるのよ。本当に不可能なことなんて何にもない!」
「そうだね。」
「待ち遠しいくらいだわ。」
「うん。でも、<今、ここ>を生きなきゃね、今、ここで、生かされているから。」
「DTs同士になっても、巡り合えるわよね、私たち。」
「ああ。はぐれても探すし。Hannahが俺を思っていてくれれば、大丈夫。」
「ユウがやっぱり先にDTsに?」
「だろうね、順番としては。」
「ユウは早く転生するのよ。転生すると、前世の記憶はほぼ消えるんでしょう?」
「すげぇ歌うたいが登場したら、それが俺だ。そんときは、必ず紫陽花の歌を歌う。」
「そのとき私が百歳のおばあちゃんになっていても、会ってくれる?」
「もちろんだ。紀寿を祝ってあげる。」
「・・・やっぱり嫌よ。ユウがあっちに行ったら、私も行く。ユウが転生したら、私もなるべく近くで転生する。」
「ああ、それもできるんじゃないか。ゲームを創り、ルールを設定し、プレイするのは<私>なんだ。そして大事なのは、縁を感じる力を鈍らさずにいることだね。
Hannahという紫陽花の花の房と、俺という花の房が隣り合うように咲くことはできるだろう。そのとき俺が君はHannah Lynn、Hannahが俺をユウって認識できるかってことだ。他生の縁をね。俺たちなら、きっと今生の縁を思い出せる!」
「同じ根本から枝分かれした二人の宇宙。互いに閉じているようだけれど、同じ雨・水と土・養分と陽の光、月の光、そして風を受けて、また鳥や昆虫の訪問を受けてー
つまり<鳥風月>を愛でて、その愛で合う心同士で互いを知るの。」
「そう、俺たちは花さ。害虫にやられることもあるけれど。」
そんなことを言い合って、俺たちは家の中に入った。
(つづく)
第3部その20
俺は凛を抱き抱えて、なんとか凛の家にたどり着いた。
玄関のドアを開けようという瞬間、背後に温みを感じ、視線を少し脇に逸らすと、庭の紫陽花が陽光に照らされていた。
俺はその花弁には<すべての色>があると<ふたたび>思った。
気がつくと、凛も泣き腫らした目でじっと同じものを見ていた。
「俺、幼稚園年長のときだったか、母が咲かせた庭の紫陽花の絵を描いたことがあるんだ。あまりに色が豊かできれいでね。」
俺は玄関先で凛を抱えたまま言った。
「どうやったらこのすべての色があるこの花を絵の具で描けるかって、思ったんだね。確か賞をとったなあ。八幡くんという同級生と一緒に、會津若松での授賞式に行った。『特選』とかって書いてある賞状とペンテルの24色の絵の具を賞品でもらった。」
凛は、たまらず、という感じで俺の唇を求めた。
激しいキスの後、凛は、
「ユウの過去のすべてを見たい!」
と言った。
俺は苦笑したけれど、それはできるとも思い直した。
「俺も凛の過去を見たいさ。ハッブル望遠鏡が129から131億年前の天体を写した。そんな途方もない昔の光を、観測者は網膜に映したのだ。たかだか数十年の俺や凛の過去を見ることができぬはずはないように思える。俺の人生なら、60光年だかの距離にある惑星から地球を見て、會津の一隅を望遠鏡で観察してみれば、生まれたばかりの俺が、凄まじい解像度の鏡なら、見える。もちろん俺が家の中にいれば見えないけれどね。」
「その60光年離れた惑星に行きたい。」
「ハハハ。行ってずっと俺を<観測>していたら、凛が地球で生まれない・・・何を言ってんだ、俺たち。」
「Impossible is nothingよ。」
「どうした、ADIDASのコピーかい。」
「アスリートのことでしょう、不可能なことなど何もない。だったら私たち、DTsになるのよ。本当に不可能なことなんて何にもない!」
「そうだね。」
「待ち遠しいくらいだわ。」
「うん。でも、<今、ここ>を生きなきゃね、今、ここで、生かされているから。」
「DTs同士になっても、巡り合えるわよね、私たち。」
「ああ。はぐれても探すし。Hannahが俺を思っていてくれれば、大丈夫。」
「ユウがやっぱり先にDTsに?」
「だろうね、順番としては。」
「ユウは早く転生するのよ。転生すると、前世の記憶はほぼ消えるんでしょう?」
「すげぇ歌うたいが登場したら、それが俺だ。そんときは、必ず紫陽花の歌を歌う。」
「そのとき私が百歳のおばあちゃんになっていても、会ってくれる?」
「もちろんだ。紀寿を祝ってあげる。」
「・・・やっぱり嫌よ。ユウがあっちに行ったら、私も行く。ユウが転生したら、私もなるべく近くで転生する。」
「ああ、それもできるんじゃないか。ゲームを創り、ルールを設定し、プレイするのは<私>なんだ。そして大事なのは、縁を感じる力を鈍らさずにいることだね。
Hannahという紫陽花の花の房と、俺という花の房が隣り合うように咲くことはできるだろう。そのとき俺が君はHannah Lynn、Hannahが俺をユウって認識できるかってことだ。他生の縁をね。俺たちなら、きっと今生の縁を思い出せる!」
「同じ根本から枝分かれした二人の宇宙。互いに閉じているようだけれど、同じ雨・水と土・養分と陽の光、月の光、そして風を受けて、また鳥や昆虫の訪問を受けてー
つまり<鳥風月>を愛でて、その愛で合う心同士で互いを知るの。」
「そう、俺たちは花さ。害虫にやられることもあるけれど。」
そんなことを言い合って、俺たちは家の中に入った。
(つづく)
2024-03-26 12:08
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コメント(2)
「過去の人びとを包んでいた空気のそよぎが、わたしたち自身にそっと触れているのではないだろうか。わたしたちが耳を傾けるさまざまな声のうちに、いまや黙して語らない人びとの声がこだましているのではないだろうか。わたしたちが言い寄っている女性たちには、もはや彼女すらも知ることのない姉たちがいるのではないだろうか。もしそうだとするなら、かつて存在した世代とわたしたちの世代とのあいだには、秘められた出会いが取り交わされていることになる。そうであるならわたしたちはこの地上において、ずっと待ち望まれてきたことになる。そうだとするなら、以前の世代がいずれもそうであったのと同じく、わたしたちにはかすかなメシア的な力が付与されていることになる。過去はこの力が発揮されることを要求しているのだ」
ヴァルター・ベンヤミン 『歴史の概念について』
by King of Nemi (2024-03-28 21:15)
King of Nemi様
すばらしい引用をありがとうございます。
過去が要求するmessiah的力を発揮したい!
by mnemo (2024-03-29 09:10)