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実験・新形態小説 『ハイドレインジャ』〜第3部その31 最終回

ハイドレインジャ
第3部その31

6月の話に戻ろう。

いよいよ3人で蛍を見る会の日が来たのだった。
凛は浴衣を着た。とても「アラフィフ」には見えない。誰が見ても30歳代にしか思えないだろう。白が基調で、涼しげな薄紫色の紫陽花の柄が目を引く。成城から歩いてきて、どれほど多くの通行人が見惚れたことか。

蘭が集合場所である喜多見駅近くのカフェにやって来た。やはり浴衣姿で、紺が基調の花柄が艶やかで、他の客が一瞬目を奪われるほどの美しい着こなし、そしてもちろん、容姿であった。

そのカフェでまず軽い夕食をとった。
話はアルバム『Hydrangeas』についてだ。蘭も収録する2曲で俺と一緒に歌詞を書いたのだ。大堀がデザインしたアルバムのブックレットにつき、詩と音楽のイメージとヴィジュアルのここが良い、ここが違うなどと話し合った。

ある曲で蘭が、「I love you, no matter how you treat me」という歌詞への想いとブックレット・デザインとの齟齬を熱く語っている裡に泣いてしまったのだ。

「光明なのよ、光。この見開きページの基調色は赤だけれど、黒やdarkな色は左ページの左隅だけにあって、右ページは光が横溢する空であってほしいの!」

凛は敏感に蘭の気持ちを受け止めて、食後のEarl Greyのカップを震わせ、ソーサーがカチャカチャ鳴った。

俺は複雑な表情をしていたに違いない。


店を出たが、午後6時半でもまだまだ明るい。
みつ池へ着いても、まだ蛍が出るには早かった。

国分寺崖線の木立の中に入れる場所を探すことになった。崖線下の道を歩いていくと成城4丁目緑地に着いた。残念ながら門は閉まっており、とぼとぼと3人は引き返す。

ヒグラシが鳴いている。
道の左側、つまり崖線直下には<はけ>が湧いていて、自生しているわけでもないだろうが、紫陽花がところどころ咲いている。そして右側の住宅の塀の内側や生垣にも紫陽花が連なるように咲いている。まるで紫陽花ロードだ。

俺はその景を立ち止まって見た。すると凛と蘭の後ろ姿がその紫陽花ロードのperspective奥に吸い込まれていくように見えた。

なんという美しい景だろう!

余りの感動に立ち尽くすしかなかった。
そして二人が本当にこの景に吸い込まれてしまう、異次元に行ってしまうのではと俄かに焦り出した。

あ!ヒグラシが鳴くのをやめた。
遠くの鳥たちの声も聞こえなくなった。

俺は咄嗟にアルバムのテーマ曲『Hydrangeas』を歌った。

There's no one around
I'm hearing no sound
In their pity I'd rather drown

誰も周りにいない
音が聞こえない
紫陽花の憐みの中 俺は溺れたい


すると凛も蘭も振り返った。
ふたりの微笑みは梅雨の晴れ間の陽光のように光った。

そのときー

大地震が来た。
すさまじい揺れだ。
崖が崩れ出した。
そう思った途端に一挙に土砂と岩と石と樹木と紫陽花が俺たちを襲った。

首都圏直下型地震だった。


俺たちは死んだ。
死んだけれど、生き残った仲間たちが『Hydrangeas』を後に発表してくれた。

俺は、凛は、そして蘭はー

今<あの世>にいる。

蘭はトライアードのハーモニーを楽しんでくれている。








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実験・新形態小説 『ハイドレインジャ』〜第3部その30

ハイドレインジャ
第3部その30

「短日や また床に入る 忍ぶ恋」

俺は大昔の駄句を漱石山房入口の先生のご胸像前で披露した。

蘭はそれを聞いて、呟いた。

「冬の月 いつも遠くの 眼差しの」

俺と蘭が四半世紀も別れることになったのはちょうどこの季節、1月初旬のことだった。蘭が完全に姿を消す数日前に、俺と蘭は音羽の今宮神社に詣でてからここに来て、ずっと押し黙ってベンチに座っていたのだった。

「私、あれから数年後結婚したのよ。」

蘭が言った。

「そう。」

俺は視線を彼女に向けることなく返事をした。

「でも、ダメだったわ。」

俺は黙った。

「愚かね。あなたのこと、忘れられるはずがないのを知っていたのに、何を血迷ったか。

相手に言われたわ、いつもお前は誰かを思っているって。優秀で誠実な人だった。なんの瑕疵もない人だった。なのに私はあなたにはできたことをその人には全くできなかったの。」

俺は唾を飲み込んだ。

「彼はその後『行人』の一郎みたいになったわ。」

『行人』の一郎・・・
俺は蘭と会えなくなってからこの小説を読んで、著者漱石の精神的な病を疑ったものだ。そのインパクトは相当だったが、やはり『それから』や『こころ』には及ばなかった。というのは、『行人』は妻の体ばかりか『霊というか魂というか、いわゆるスピリットを攫まなければ満足ができ』ず、裏切られる恐怖が募り過ぎて心を病む男の話、『それから』は優柔不断が祟って友人にとられてしまった女を取り返しながらも、人妻を奪ったことで家から追放され高等遊民ではいられなくなってしまう男の話、『こころ』は女への友人の恋心を知りつつ、卑怯にも秘密裏に先んじて女と婚約したものの、友人がなんと自裁してしまい、生涯致命的なほど悩んでしまう男の話であり、俺がどのタイプの男かと言えば、後者の2人の方だからだった。

「さっきの、凛さんのトライアード論はおもしろかったけれど、凛さんがトニックなら、いつでもユウは3度でしょ。長でも短でも。私が入るなら5度。」

蘭が小さな声で言った。

「え?」

「私がトニックでも同じよ。ユウが長3度か短3度。凛さんが入るなら5度。ユウが短3度のとき、凛さんは減5度になったりすると思うの、私。私だって凛さんが主音のとき、ユウが短3度なら減5度になると思う。」

「ならないよ。」

俺は言下に否定した。

「凛は、5度を担うなら、いつでも増減なしの5度、<完全5度な>女性だよ。」

蘭は黙ってしまった。重苦しかった。


「こころから愛してるのね、凛さんのこと。」

蘭が涙声で言った。

「私はあなたと凛さんとでメイジャー・トライアードを構成できない。」


俺はしばらく下を向いて言葉を発しなかった。

そう云えば漱石先生はDTとしてお出ましにならなかった。

<だから>俺は漱石先生の胸像に書かれている俳句とその前句を音読した。


人よりも空、語よりも黙。

肩にきて人懐かしや赤蜻蛉


この言葉を何度噛みしめたことか。
俺にとって「人」は蘭であった。

その蘭とこうして漱石公園を再訪できた喜びは本当に果てしないほどだ。
これから二人はどうなるのか、どうなればいいのか、ちっとも判然としない。

そんな1月のある日を俺と蘭は過ごしていたのだ。


(つづく)






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