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実験・新形態小説 『ハイドレインジャ』〜第3部その29

ハイドレインジャ
第3部その29

俺たちは<それから>江戸川橋で食事をしたが、蘭はほとんど料理に口をつけなかった。

店を出ると、1月ゆえ午後6時ではすっかり夜になっており、俺は寒いのは気にならないが、蘭は「凍えそうだ」と言って、ストールを巻き直した。

江戸川橋周辺は俺にとっての<ド・漱石圏>であり、しかしながら、「代助」になり損ねた俺は「三千代」に準えることのできる蘭と共にそこを歩いている一抹のうれしさがあった。黒歴史の<塗り替え>が多少なりともできているという想いがあったのだ。なぜなら、蘭と歩くことができなくなったことによる絶望こそ俺の「漱石病」を発症させ、また深刻化させた原因そのものだったのだから。

蘭との出会いは、もう30年以上前に、狛江の市民祭りで当時俺がいたバンドであるPanaceaが駅前の特設ステージで生演奏をした時まで遡る。「音楽のまち」というキャッチコピーを持つ狛江は、藤倉転石が住んでいるのも一例だが、音楽業界人が多く住む街としてそれなり知れ渡っている。

蘭はそこで俺が歌った、バンドメイトのエカと共作したLight Through the Cloudという楽曲に強く共感し、俺が演奏後後片付けをしている時に声を掛けてきたのだ。

その歌には、「Something tells me my future is fading / Light is about to freeze」というような正に陰鬱な歌詞があり、当時の蘭の心の琴線に触れたと言うのだった。

彼女はその頃17歳だった。Panaceaのパンフを受け取り、バンドに関するネット上の情報にアクセスしてギグにも必ず来てくれるようになった。2年後彼女は慶応の学生となった。俺にとって蘭はファンと言うより、詩作上の頼れるパートナーとなっていった。鋭い感性、言語感覚に俺は何度も驚かされ、そして次第に惹かれていき、一線を超えた。

俺は出会いの頃にはすでに既婚者であったし、そのことは蘭も知っていた。だから愛し合ってしまったらそれがのっぴきならない関係になることを意味するのは蘭も承知だった。漱石の小説と同じだ。三角関係である。そしてその関係が数年後必然のように破綻する。俺は「代助」のようにけじめをつけようと思ったが、一時逡巡をした。蘭もずっと己の罪意識に苛まれていたのだが、いよいよ死ぬか生きるかというようなところまで追い詰められ、突如姿をくらましてしまったのだ。後で知ったが、俺の妻に今生二度と俺とは会わないという誓約書を託してのことだった。

俺は「一時逡巡」を後悔した。迷わずに最愛の女性と生きていく決意をし、行動すべきだった、と。しかし逡巡させたのは、もちろんまず妻への罪悪感があったが、何より幼い娘と離れ難かったからだった。それでも結局俺は妻と別れた。

そんな泥沼のような一時期を、この江戸川橋や神楽坂周辺で俺と蘭は過ごしたのだった。

その後俺は狛江に戻るまで約5年、独りこの「漱石圏」で暮らすことになった。娘とは週に一度くらいのペースで会えることだけが救いだった。

俺は自虐的に漱石の特に中後期の著作を貪り読んだ。彼がそれらを書いた早稲田南町へは至近の町に暮らしていたから、たまらなくなると、深夜であっても、その「文豪」の終焉の地で、今は新宿区立漱石公園になっている場所へ歩いて行った。

肩に来て人懐かしや赤蜻蛉

漱石の胸像に刻まれた彼の句を何度涙して読んだことか。


蘭が白い息を吐きながら、

「凛さんと出会えたのは本当に良かったわね」

とあらためて言った。

「ああ。」

俺はなんら飾る言葉も、態度も、声調もなく、肯定した。

「歌で表現できるって、本当に羨ましい。」

蘭は大昔に俺につぶやいた言葉をまた呟いた。

「凛さんとはもう結婚しているの?」

「けじめはつけてあるよ。」

「もちろん今日私(あたし)と会っていることはー」

「知っているよ。快く送り出してくれた。」

「・・・すごい人ね。」

「俺を、蘭を、信用し切っているってこと?」

「・・・。」

「凛はね、なんか超越してるんだよ。」

「超越?」

「あの時代じゃしょうがないけれど、漱石の三角関係小説を読んでいると、2点間の直線になるか、3つの点になるかしかないって前提しているのがもどかしいって。」

「・・・。」

「トライアードって安定しているじゃないって。トニック、3度上、5度上。鼎立。平面を埋めるのが可能な三角形、四角形、六角形のうち、強度だけで云えばトライアングル、トラス構造が一番だって言うわねって。」

「・・・。」

「3人のうち、誰かが短3度になって悲しい感じの3人になってもいいし、もちろんその人が長3度になれば晴れやかで、それももちろんいい。誰かが減5度になったら、なんかおどろおどろしくなって、増5度でもそうだけれど、一時はいいけれど、早くメイジャーかマイナーになろうって思わない、なんて言うんだ。」

「・・・。」

「短調がなかったら、長調も活きないでしょ、逆もまた然り。たとえ長3和音ばかり、短3和音ばかりの調べがあっても、それはそれぞれ<反対の調の不在が前提>なのよ。今は不在だけれど、その存在は意識されている。いつもそんな悲しい調べばかりじゃないじゃないって。いつもそんな明るい調べばかりじゃないじゃないって。」

「凛さん、彼女とユウと私のことを言っているの?」

蘭が呆然とした表情で言った。

「そう。」

俺は答えて、地蔵坂上で右折するようにと蘭の肩に手を置き促した。

「今私たちはどういう和音なの?」

「どうだろうね。誰かが他の二人に疑いを持っていればディミニッシュ・コードかな。俺はメイジャーとは言い難いにしても、だったらマイナー・コードだと思う。」

「誰が短3度?」

「さあ。お互いがお互いをそう思っているかも。でも少なくとも凛は短3度にはなりにくい人だよ。」

「ユウはお母様の旧姓が根本だから、いつもルート(根音=トニック)?」

「ハハ。俺については、自分の認識世界では、自分がルートになってしまうだろうね。その俺の世界に二人が登場すれば、そしてその二人が互いを俺を<中心>にして意識し合うようになれば、どちらかが長および短3度だとか、あるいは完全、増、減5度だとかって思うわけだ。勝手にね。」

「・・・。」

「何にしてもトライアードのハーモニーだ。そう思っているんだ、凛は。」


そんなことを話しているうちに、漱石公園に着いた。


(つづく)



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