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実験・新形態小説 『ハイドレインジャ』〜第3部その30

ハイドレインジャ
第3部その30

「短日や また床に入る 忍ぶ恋」

俺は大昔の駄句を漱石山房入口の先生のご胸像前で披露した。

蘭はそれを聞いて、呟いた。

「冬の月 いつも遠くの 眼差しの」

俺と蘭が四半世紀も別れることになったのはちょうどこの季節、1月初旬のことだった。蘭が完全に姿を消す数日前に、俺と蘭は音羽の今宮神社に詣でてからここに来て、ずっと押し黙ってベンチに座っていたのだった。

「私、あれから数年後結婚したのよ。」

蘭が言った。

「そう。」

俺は視線を彼女に向けることなく返事をした。

「でも、ダメだったわ。」

俺は黙った。

「愚かね。あなたのこと、忘れられるはずがないのを知っていたのに、何を血迷ったか。

相手に言われたわ、いつもお前は誰かを思っているって。優秀で誠実な人だった。なんの瑕疵もない人だった。なのに私はあなたにはできたことをその人には全くできなかったの。」

俺は唾を飲み込んだ。

「彼はその後『行人』の一郎みたいになったわ。」

『行人』の一郎・・・
俺は蘭と会えなくなってからこの小説を読んで、著者漱石の精神的な病を疑ったものだ。そのインパクトは相当だったが、やはり『それから』や『こころ』には及ばなかった。というのは、『行人』は妻の体ばかりか『霊というか魂というか、いわゆるスピリットを攫まなければ満足ができ』ず、裏切られる恐怖が募り過ぎて心を病む男の話、『それから』は優柔不断が祟って友人にとられてしまった女を取り返しながらも、人妻を奪ったことで家から追放され高等遊民ではいられなくなってしまう男の話、『こころ』は女への友人の恋心を知りつつ、卑怯にも秘密裏に先んじて女と婚約したものの、友人がなんと自裁してしまい、生涯致命的なほど悩んでしまう男の話であり、俺がどのタイプの男かと言えば、後者の2人の方だからだった。

「さっきの、凛さんのトライアード論はおもしろかったけれど、凛さんがトニックなら、いつでもユウは3度でしょ。長でも短でも。私が入るなら5度。」

蘭が小さな声で言った。

「え?」

「私がトニックでも同じよ。ユウが長3度か短3度。凛さんが入るなら5度。ユウが短3度のとき、凛さんは減5度になったりすると思うの、私。私だって凛さんが主音のとき、ユウが短3度なら減5度になると思う。」

「ならないよ。」

俺は言下に否定した。

「凛は、5度を担うなら、いつでも増減なしの5度、<完全5度な>女性だよ。」

蘭は黙ってしまった。重苦しかった。


「こころから愛してるのね、凛さんのこと。」

蘭が涙声で言った。

「私はあなたと凛さんとでメイジャー・トライアードを構成できない。」


俺はしばらく下を向いて言葉を発しなかった。

そう云えば漱石先生はDTとしてお出ましにならなかった。

<だから>俺は漱石先生の胸像に書かれている俳句とその前句を音読した。


人よりも空、語よりも黙。

肩にきて人懐かしや赤蜻蛉


この言葉を何度噛みしめたことか。
俺にとって「人」は蘭であった。

その蘭とこうして漱石公園を再訪できた喜びは本当に果てしないほどだ。
これから二人はどうなるのか、どうなればいいのか、ちっとも判然としない。

そんな1月のある日を俺と蘭は過ごしていたのだ。


(つづく)






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