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I was dead for three years

起きてから早速NHKBSの「アナザー・ストーリー」を見た。
JohnのIMAGINEが特に東欧(さらに特に当時のチェコスロバキア)の若者たちに
与えた影響についてのドキュメンタリー部分が印象に残る番組だった。

Beatlesが世界の若者たちに与えた影響はほんとうに多岐に亘り、
それは古い体制や価値観を、愛と平和、自由で刷新するもので、
音楽はもちろん生き方についてのメッセージであり、その浸透ぶりが研究され、
すでに学問(Beatlesology)の対象にもなっている。

先日のHey Judeが冷戦終結に及ぼした影響を語った番組に
さらにIMAGINEのを付け加え、まるでNHKは今のロシアのプーチン専制を壊す
ヒント特集をしているかのようだ。

1971年、初めてIMAGINEをー
灯油をこぼしてしまってその匂いが取れぬままになった自分の部屋でー
聴いた私は、それは冬のことだったなあと思い出す。

シンプル無比なこの曲の厳かさには中学生の私であっても打たれた。
ただし、ヒットチャートの1位にはなれない曲だなとも思った。
その頃はPaulとのチャート順位争いが始まっていたし、
GeorgeもRingoもその競い合いに参加していたし、
John贔屓の私は少し焦慮するぐらいだった。

GodMotherWorking Class Heroなど、
Johnの<虚飾を剥ぎ取った>シンプルな歌は深刻なものばかりで、
popでいようなどという想いは微塵もないようだった。
それでもOh, My LoveLoveなど、美しいメロディーの曲もあり、
しかしこれらでチャート1位になれないならもうJohnは永遠にその<栄誉>には
浴せないのではないかとやきもきしていた。
(実際は、1974年に私の好みではない、Elton Johnとの共演曲
Whatever Gets You Thru the Nightで1位になるのだが、
楽曲的にはそれまでにいくらでも優れた曲があったのにと購買層の低レベルを呪った。)

私の通った中学は會津という田舎のさらに田舎の学校であり、
男子生徒は坊主頭が強制されていた。
私は今でも13歳でJohnのように長髪で金縁メガネ(伊達)にできなかったことを
心から恨んでいる。
基本的な自由に関わることを制限する校則などというくだらないものへの嫌悪感は
この歳になっても完全に払拭することができないままだ。
日本の田舎などというものは1970年代でも自由については後進性が甚だしかった。
(私の知る限り、私の中学などが属する学区において丸刈りを強制されて
いなかったのは喜多方第一中学校だけだったはずだ。因みに後に有名になる
喜多方ラーメンの元祖店はこの喜多方一中の学区内に在る。まあ、それと丸刈り強制が
ないということとどれほど関連があるかは定かではないけれど。笑)

Beatlesの曲、彼らのファッション、インタビューなどでの自由なふるまい、
ウィットなどなどに刺激されない少年などいるはずがなかった。
私はしつこいようだけれど、5歳から6歳にかけての頃に長兄の影響で洋楽を聴き始め、
1964年にはPlease Please Meで「心の高揚(by Mick師)」を覚えていた。
1967年には長兄が世界同時発売だったSgt. Pepper'sを小学生として聴いていた。
(ブッ飛び過ぎで怖くて聴けない曲も多かったけれど。)

そんな少年が中学で丸刈りを強制され、自由より規律、個人より集団、
愛だ恋だより禁欲・勤勉などを強いられた3年間は地獄だった。

繰り返すが、私は自分が通った中学を心の底から嫌悪している!
(そんな地獄の3年間でも、山田先生、遠藤先生、岩橋先生は大好きだったが。)

だからー

70年代の日本の田舎なんてものは、プーチン・ロシアみたいもの、
あるいはソ連影響下のチェコスロバキアのようなものだったのだ。

なに?
Beatlesを自由に聴けただけマシだった?
それは曲がりなりにも「自由主義陣営」の一国だったからでしょ。
親分筋の米英の音楽を否定することはできなかっただけのこと。

*

IMAGINEはいずれカバーしたいけれど、シンプルな分、特にピアノのニュアンスは
相当にカバー(コピー)がむずかしいだろう。
ドラムスも生でなければいけないだろうね、迫るカバーにするためには。




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