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I've wished I were British

今TVとなれば、私はAXNミステリーの英国モノばかり見ている。
だいぶ前にファンになったJohn Nettles主演の
『バーナビー警部(原題はMidsomer Murders)』が今初回から再放送されていて
またハマってしまっている。
さらには過日にも触れたBrenda Blethyn主演のVera
またさらには最近興味を惹かれたDCI Banks
そして今は放映されていないShaun Evans主演のEndeavour

まだよくつかめていないDCI(Detective Chief Inspector=警部)Banksを除き、
John Nettlesも、Brenda Blethynも、Sean Evansもみなケルト系なのがおもしろい。
Nettlesはコーンウォール生まれ、母がアイリッシュ(父親についてWikiには
書いていない。生まれてすぐに養子になったという)、
BlethynはWikiでアイリッシュとは書かれていないけれど、
カトリックの貧しい家に生まれ9人兄弟だとあり、さらに何より劇中でBlethyn自身が
「私(スタンホープ警部)はアイリッシュだ」と言っているのだ。
Evansは父母が北アイルランド出身で、彼自身はリバプールの生まれ、育ち。
(BadfingerのbassistであったTom Evansもリバプール出身だ。)
Evansはウェールズ人ないしはコーンウォール人の姓で、ケルト系だ。
(なお、DCI Banks主演のStephen Tompkinsは姓だけで言えばイングリッシュだ。
しかし彼の家もカトリックだというから、アイルランドの血が濃いのではないか。)

アメリカの警察官にアイリッシュ系が多いのはよく知られた事実だ。
消防士も含め、命懸けの仕事にアイリッシュ系が多く就いたのは、
移民が遅れた彼らにはそういう仕事しかWASPから与えられなかったということが
第一の理由だろう。そしてカトリック教徒としての謹厳さ、真面目さもその職種に
合っていたというのもあるだろう。
(『ダイ・ハード』のJohn McClaneもアイリッシュ系の設定だ。)


私はなぜイギリスに生まれなかったのだろうと今まで何度か思ってきた。
きっかけは無論Beatlesだ。
彼らに憧れ、Britishでありたいと思った。
そしてBritishとはさまざまな民族の総称であることを後に知る。
今ならEnglish、Welsh(Cornish)、Scottish、Irish、そして旧植民地からの
アフリカ系や南アジア系などなどだ。

音楽的には断然そうだし、英国製ミステリー物を見ていても親しさを覚えることから、
私はアイリッシュ系のBritishになりたかったということになるのかな。
スコティッシュ系でも、ウェールズ系でもいいのだけれど。

どうでもいい話を長々書いてしまった。


追記

どうでもいい話なのだから、追記することもないのだがー

私は何も「白人になりたかった」というようなことを書いていないことを念のため
申し上げたいのだ。

もしBeatlesがアジア人やアフリカ人だったとしたら、私はそのいずれかにも
なりたかったとときどき思ったことだろう(むろん私は現にアジア人だが。)
ほぼなんらの言葉や文化の壁なく彼らを<すぐに>全面的に理解できたのだ。

しかし、私は日本人、それも會津の片田舎に住む夫婦の3男坊で生まれ、
彼らの音楽に音では5歳ですぐに魅了されたけれど、歌詞の意味を知らずにいた。
その壁を乗り越えていく努力をして、それで私の今があると言っていい。
Beatlesを理解するための努力が、私が日本人であることへの考察にもつながり、
また普遍というものを考え、さらには追求することにもつながったのだ。

だから、結論としては、アイリッシュ系イギリス人に強い親近感を覚えつつ、
そのひとりとしては生まれなかった偶然を受け入れて、
我が父母の子として生まれた事実を引き受け、さまざまなことを相対化し、
豊かであることを喜び、歌を通じ普遍に至ることを志してきた自分の人生を
むろん肯定する、ということになる。



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Nature is kind

昨日の記事で、

「私にとって『速やかにすべき事』とは、シンガー、詩人、作曲家として
<自分が納得できる>楽曲を残すことだ。」

と書いたけれど、では残してどうする、という問題がある。

ミュージシャンであれ、他の分野の藝術家であれ、またそうしたアート関係ではない
人であっても、多くが後世に残ること・ものを成し遂げたいと思うものではないか。

中島義道さん風に言えば、自分がこの世から去ってしまって以降のことなど
全くどうでもいい、関心がないということになり、それは一見識だ。
<ただの物質>に戻ってしまって以降のことなど知覚、認識できはしないのだ。

そうしたドライな考え方も大いに理解するけれど、私はその立場ではない。

吉田兼好の徒然草は、平安末期から鎌倉時代初期に生きたこのインテリの思想が
普遍的・不変的価値を持ったがこそ現代にまで生き延び、
おそらくこれからもずっと生き延びるのだ。

中島さんの著作も、彼の意に反し、ずっと読み続けられるだろう。
「どうせ死んでしまう」という空しさから出発した彼の思想は、疑いなく不変的に
参照する価値を持っている。

翻って私の音楽上の達成がそれなりの価値を持つかどうかは知らないにせよ、
それを信じて死ぬまで歌っていくよりないではないか。

Talking to the daisies one day at a time
I fall into a doze
Full of tears in my eyes

But I know
I know for sure
It's no use crying all day long
So I'll dream a happy dream and dry
all the tears I shed

ある日ある時
野菊に話しかけながら
ぼくはうたた寝をする
涙をいっぱい 目に溜めながら

でもね
ぼくはちゃんと知っている
一日中泣いていたってしかたがないから
幸せな夢を見て
その涙を乾かすんだよ


こんな歌詞を25歳の頃に書けたことは我ながら驚嘆するのだ。
今の自分であっても、その<人生への態度>を変えていないのだから。

自然を友にし、慰められ、また立ち上がるー

生きることも死ぬことも自然のことなのだから、
長短はあるが人生をかけて自然というものの本質を確かに感じ取って、
それが畢竟やさしいものだと結論して、
怖がらず、親しく、自然を、生死を、歌っていくー

それが私の歌うたいとしての、ひとりの人間としての、人生なのだ。

この確信が音になっていれば、必ず残っていく。
残って、どなたかにとっての、<私の「野菊」>になるはずだと思う。



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徒然に、赤裸々

人間誰しもなにかしら未完のままにして世を去るものだろうー
いや、すべてやり尽くして大満足の裡に息を引きとる人も少しはいるかもしれないが。
私はそんな稀有な幸せ者には多分ならない。

そういう者にとって、昨日掲げた徒然草・第四十九段で殊更に厳しい一節は、

「誤りといふは、他の事にあらず、速かにすべき事を緩くし、
緩くすべき事を急ぎて、過ぎにし事の悔しきなり」

であろう。

「速やかにすべき」か「緩くすべき」かの判断はむずかしい。
しかし歳を相当に重ねてから「緩くすべき事」というのはきっと少ない。

私のsinger修業は「緩くする」ことだった。
幼少5歳からのことで、それなりの成果と言える『機甲界ガリアン』のOPとEDでの
歌唱まで約20年のことだった。

この2つの楽曲で三浦徳子さんとの共作詞したわけで、
つまり作詞家としても、さらに同時期サントリーのCMに採用していただいた
我が曲Prideがあり、つまり作曲家としてもその20年の緩き修業の一応の成果は出た。

こうしてEUROXでデビューし、多くのオファーをいただくという大幸運に恵まれたとき、
「速やかにすべき事」がきっとたくさんあったと思う。
しかし私はその多くを「緩くすべき事」と考えて、
あるいはその余りの「速やか」さ加減に慄いて、
またの機会までとバンドをデビューから1年もたず脱退してしまった。

例えば当時イギリスのWARNERからオファーがあったLEVEL 42のイギリス国内
ツアーでの前座出演の話に私が乗れるど根性があったら、と思う。
Mick師はじめ日本のWARNER (Pioneer)のスタッフは、すでにイタリアWARNERでは
発売ということになったCold Line c/w Out of Control
アメリカのWARNERからも発売するという打診もあって、興奮され、
イギリス・ツアーが終わればそのままイギリスでファースト・アルバム録音までの計画を
お話しくださったのだが、私がそこで腰が引けなかったなら、と思うのだ。

これらの恵まれ過ぎとも言えるオファーのほぼすべてを私は「速やかに」は
受けることができず、「速やかに」できることでもないと自信を持てず、
苦しくなって逃亡してしまった。

そのとき「自信が持て」なかったのは、なにしろ作詞家としての自分だった。
作詞家としての自分の引き出しにはもう何も歌うべきことが入っていなかった。
スッカラカンだったのだ。

Henri君がバンドの実質のリーダーだったし、彼は作曲に燃えており、
いきおい彼のメロディーに私が歌詞をつけるという態勢が恒常化していたのだが、
彼が次々と作ってくるそれぞれの曲にどういうことばの世界をくっつけるのか
というのは悩みの種で、作詞家なのにことばに貧しいというどうにもならぬ
私には無理難題だった。

<いったい私は何を訴えたいのか?>

生半可に「愛と平和」をなどとホザいても、そのことばは陳腐で貧弱だった。
バンドの音楽は、音とことば(=バンドの詩的世界)が両輪だけれども、
私はリード・ヴォーカルであり、さらにその詩的世界構築も任されるとなると
完全にoverloadになってしまったのだった。
(EUROXはこういう詩的世界で行くバンドだというようなメンバー間の了解が
あってできたわけではなかったのだ。そして、たとえそれがあっても、
私は早々にことばを枯渇させていたはずだ。)

それゆえ私は、その「ことば」を「緩く」進みながら獲得していくしかないと思った。


年月は流れに流れ、Rajoyのプロジェクトを私は提唱した。
私には訴えるべきことが十分あると思っていた。
齢を重ねたメンバー同士、いよいよ「速やかに」事を成していこう、と。
それぞれの専門での結論的なプレイを、パフォーマンスを、Rajoyに残していこう、と。

しかし、皆が皆、「速やかに」そうできる態勢ではなかった。

そういうことだった。


私は今、個人として、「速やかにすべき事」を自覚している。
しかしそれでもその「速やか」さを焦りと同義にするわけにはいかない。

若い頃は「早く売れなきゃ」ということで焦ったこともある。
今、「売れなきゃ」などとは微塵も思っていない。
ミュージシャンとしては、そういう意味では恵まれている。

私にとって「速やかにすべき事」とは、シンガー、詩人、作曲家として
<自分が納得できる>楽曲を残すことだ。
分かり合えている治雄ちゃんやスティックとー
そして自分個人としても。

それでも、焦ってはいない。



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Peace of Mind

前々稿の「『寝床』の旦那論」に、私が拗ねてしまったような印象を受けた方も多いかも
しれないけれども、そういうことはないと申し上げる。

Twitterを始めたとき、私はRajoyの仲間たちとメッセージを同一にして世に訴えかけ
たいと願っていた。The Saviourでは反核、Is This Americaでは反トランプだった。
そのRajoy自体が早々に空中分解してしまい、情けない結末となってしまった。
少しでも期待をかけてくださった方がいらしたら、申し訳ないことであった。

そんな内部的な不調和を抱えつつ、結局その2曲でTwitterで繋がったかに思えた
同じような政治的志向の方々の賛同や共感はほとんど得られなかった。
(聴いていただけたかすら分からない。そんなものだ。)
ただ楽曲を発表したところで広がることはなかったのだ。
野心的YouTuberの思考なら、広島でゲリラ・コンサートを開いたり、
アメリカのトランプ支持者の前で歌ったりというようなことをして、
そこでインシデントないしはアクシデントが伴わねば<稼げない>というところか。

もちろん音楽自体に力がなかったということも認めざるを得ないかもしれない。

Deafening Daphneというtrioに戻って、私は長く相棒でいつづけてくれる
治雄ちゃんとスティックとでよりMNEMO personalなモチーフの曲に戻っていった。
そして間もなくパンデミックに世界全体が襲われてしまう。

もともとこのtrioには「上モノ=主に高音部を担当しsolo楽器が弾ける者」がおらず、
狂いつつある世界へメッセージをとなったとき、器楽的な不備を埋めるための
Rajoy結成だったのだが、うまくいかなかった、ということなのだ。

Covid-19の蔓延という事態になり、またそれがこうして長引く中、
私はカバーなどを中心にして録音のしかたを自習しながらここにその「結果」を
発表するという営みを始めた。

最高で200人ほどの方が聴いてくださる営みだが、その数は頭打ちだ。
発表する以上、もっと多くの方々にも聴いていただける努力をしなければならないのは
疑いないことなのかもしれないが、<一旦>限界を感じて、
ただ細々と営みを続けるというのもありではないか、と今は思うのだ。

もちろん「今は」、当座はなどと言っている裡に老いまくり、
その営みすらも永遠の頓挫にいつ陥ってもおかしくはないのだけれど。

老いが進行する中で、最も大事なのはpeace of mindなのだ。


老来りて、始めて道を行ぜんと待つことなかれ。
古き墳、多くはこれ少年の人なり。
はからざるに病を受けて、忽ちにこの世を去らんとする時にこそ、始めて、
過ぎぬる方の誤れる事は知らるなれ。
誤りといふは、他の事にあらず、速かにすべき事を緩くし、緩くすべき事を急ぎて、
過ぎにし事の悔しきなり。
その時悔ゆとも、かひあらんや。

人は、たゞ、無常の、身に迫りぬる事を心にひしとかけて、束の間も忘るまじきなり。
さらば、などか、この世の濁りも薄く、仏道を勤むる心もまめやかならざらん。

「昔ありける聖は、人来りて自他の要事を言ふ時、答へて云はく、
『今、火急の事ありて、既に朝夕に逼れり』とて、耳をふたぎて念仏して、
つひに往生を遂げけり」と、禅林の十因に侍り。
心戒といひける聖は、余りに、この世のかりそめなる事を思ひて、
静かについゐけることだになく、常はうづくまりてのみぞありける。


〜徒然草・第四十九段が沁みる。



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適任者を選ばなかったツケ

空しくなるねー

新総理は、学術会議会員任命問題で「リストは見ていない」と任命権者として途方もなく
無責任なことを言っていたのに、今更会員学者の所属大学に偏りがあると言い出した。

学力別クラス編成の学校があったとして、最上位クラスの生徒たちの成績上位独占を、
偏りがあるがあるから数名を成績上位者リストから外す、と言っているようなもの、
さらに「ではなぜその特定の優秀者を外すのか」には全く答えていないという
二重の<頭がおかしい>事態が進行中なのに、大問題にならないのだから。

本当に、なぜ適格者ではない者が大それた任に就こうとし、また他が就かせるのか。

Mooさんの住まわれる長野県北安曇郡池田町は、今財政問題で揺れている。
財調の資金が底を尽きかけており、このままではいろいろなことに金が回らず、
特に福祉や医療、教育などに大きな影響を与えるのはこのままでは必至なのだ。
この財政悪化は、見通しの甘い大規模ハコモノ行政のツケが回ってきたからだ。
しかし町(長)は、それらは町民の要請に基づいて整備してきたのだからと
あくまで本質的な非を認めないようだ。

町民のための施設を造ったのだから、予算を上回ろうが、維持には町の規模に合わぬ
金が毎年出ていこうがしかたがないー

そんな理屈があるか。
この町も結局町の舵取りをするに適任でない人を長にしてしまったのだ。

ツケは、支持した人もしなかった人も払わねばならない。



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2020 神無月随想

Stemming the tide 2020: The reality of the Fukushima radioactive water crisis released on Friday, Greenpeace claimed the contaminated water contained "dangerous levels of carbon-14", a radioactive substance that it says has the "potential to damage human DNA". (BBC Newsより)

https://www.bbc.com/news/world-asia-54658379

放出される汚染水はトリチウムだけのような印象を日本政府は与えていると
Green Peaceは主張しており、同じく海へ流される放射性物質の炭素14
(半減期5730年)がDNAを壊す危険性を訴えている。

*

落語に『寝床』という演目がある。

義太夫を趣味とする裕福な商家の旦那がまたその稽古の成果を発表するという。
巧ければなんら問題がないどころか、酒やご馳走がふるまわれるし、
最高のイベントとなるところだが、あまりの下手さ加減、悪声なので、
招待客になるはずの旦那が持つ長屋の住人たちは懲り懲りしており、
誘いを体よく断る。

その断りの返事を伝える使者となった旦那の店の者は、
最初から「誰も来ません」と言えばいいところで、言いよどみ、
結局一人ひとりの言い訳を旦那に話してしまい、旦那は最後にはカンカンに怒ってしまい、
全員の「店立て(長屋から追い出すこと)」を申しつけ、
さらにやはり旦那の語る義太夫を忌避する店の者たち全員にも「暇を出す」と言う。

さすがにこれはまずいということで、長屋の連中が「なんとか来れるようになった」、
「旦那の義太夫がどこまで進んだか、気になって仕方がなく、仕事が手につかない」
などと調子のいいことを言って上演を請う。

最初は「馬鹿にされたようじゃないか」と拒否していた旦那だが、
「芸の出し惜しみ」などと言われたくはないなどと言い、機嫌を直してしまう。
そして語ると言った演目の数は十いくつにも上り、一同はうんざりする。

義太夫がいよいよ始まって、酒や菓子や料理をいただきながら内々で文句を言いつつ
聞いていたが、しばらく経つとみんな寝込んでしまう。
「静かに聴いてくれている」と感激する御簾の向こうの旦那。
「ご挨拶を」とその御簾を上げてみると、
「河岸の鮪のよう(金馬の工夫したセリフ)」に横たわる店子たちに憤激する。

旦那が怒っても、小さな声で芸の下手さ加減をからかう声が処々聞こえる。
ところが一人だけ泣いている者がいる。
丁稚の貞吉だ。
「この子だけは芸がわかり、涙を流してくれている」と旦那は喜び、
どの場面でその涙は誘われたかいろいろと訊くのだが、貞吉は御簾の向こうの場所を
指さすのだった。

「あそこは私の寝床でございます。」

~終わり


いろいろな咄家がこれをやるし、前半を略す(出演時間の関係だろう)ことも多い
ようでなんとも言えないところがあるが、三代目三遊亭金馬の藝が私には一番だ。


さてー

私は素人ではないけれど、私の音楽活動もこの旦那と同じようなところがあろうと、
この頃この噺を聴くとしみじみ思うのだ。
だから、さあ聴いてくれ、反応を待っているよ、などという態度はとらないように
しなければとますます思うのだ。
そういう態度こそ<意識しすぎ>とされてしまうことかもしれないが、
それでも他者に左右されたくない、される必要はない、
ただ自分が好きでやっていることだし、楽しんでいただける方がいらしたら僥倖、
勿怪の幸いと思うくらいでいいのだ、
それも何も反応を直接していただかなくてもいいのだ、と。

「聴いてください」活動の一環だったTwitterもほぼやめてしまった。

自分のブログでの「聴いてください、読んでください」活動も本当はいかがなものかと
思うところがあるけれど、しかし、14年もやってきたのだしなあ、と。
大したことではないが、累積で200万アクセスも近づいてきているのですよ。
そんなことはどうでもいいのですけれどもね、執着(しゅうじゃく)ですからね。


*


私が最期を迎えるとき、いろいろな音楽を聴いている中であってほしいとは願っていて、
その「いろいろな音楽」の中に、Elton JohnのGoodbye Yellow Brick Roadがあります。

この曲のメロディー、コード進行、アレンジメント、パフォーマンス、
すべてすばらしいし、詩もまた最高レベルだと思っているのです。

一言で云えば、都会暮らしをやめ、田舎へ帰る決意をしたsingerの歌なのです。

I'm not a present for your friends to open

という一行があります。

「ぼくはきみのともだちが開けるプレゼントじゃない。」

さらに、

Maybe you'll get a replacement
There's plenty like me to be found

「代わりは見つかるよ、多分
ぼくみたいなのはいっぱい見つかるさ。」


この歌を盛んに自分の部屋で唄っていた高2の頃、
歌詞の意味はほとんど理解していませんでした。

Eltonは代わりなど見つからぬ偉大なsingerです。
(作詞はBernie Taupinです。)

そして私も、少なくとも唯一の存在としての自分(みんなそうですけれど)という
意味で、代わりなど見つからぬ歌うたいであることだけは確かだとー



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直軒

いよいよ今使っているMacBookが「outdated」ということになってきた。
Wikipediaがすでにキャッシュでしか閲覧できなくなってしまった。
Flash Playerがもうサポートされなくなるし、
私が使う無料将棋ゲームももう余命幾許もないのか。

Garagebandを引き続き使いたいので、AppleのPCを新規購入となるけれど、
高いんだよね、なにしろMacは。

*

昨日つらつらTV(CATVとBSしか視聴しない)を見ていたら、
山本周五郎の人生をドラマにして描く番組が再放送されていたのだ。
私はこの小説家の本は、自慢ではないが、一度も読んだことがない。プ。

それでも冒頭の<つかみ>の部分で、直木賞を辞退した唯一の小説家というのを知って、
これはちょいとおもしろそうだと見続けた。

この人は本名清水三十六(さとむ)だそうで、番組では一切触れなかったが、
賞の由来である直木三十五(さんじゅうご)のペンネームに近いのだから驚く。
山本の方は明治36年生まれゆえの本名、直木は本名植村宗一、
「植」を分解しての「直木」だそうで、下の方は年齢によるのだそうだ。
(よって年齢の変化で下の名も変わったが、三十五で文藝春秋創設者菊池寛に諭され
三十五で打ち止め、三十六とはしなかったそうだ。)
三十六は三十五の賞を貰わなかった・・・<超越>していたのだなあ。プ。

清水はなんと私が忌避する(失礼!)山梨の大月在郷=初狩の出身だそう。
甲州街道沿いとは云え今でも田舎だし、明治の頃などはほとんど秘境に近かったろう。
本籍は韮崎市で、武田の家臣の血筋だったともいう。

この清水家、水害に襲われまくって、三十六を中学には出せないということで
銀座の質屋山本周五郎商店に12歳で丁稚奉公、その後恩人にもなる店の主人名を
筆名にしたというのだ。

直木賞を辞退し、文壇では彼を「曲軒」、すなわち臍曲がりと揶揄したそうだ。
確かに拘りの強い人で、すべての賞を以降も辞退している。
しかし、文藝春秋の編集者だったかが、「むしろ彼は<直軒>だった」と言っていた。
私もそのとおりだと思う。


ファンでもない山本周五郎のことをこれ以上の仔細につき書くことはしない。
私がおもしろいと思ったのは上での最後の方の<臍曲がりは実は曲がっていない>と
いう話なのだ。

「折角の賞を貰はないなんて、随分山本さんは臍曲がりなんですね。」
「いゝや、逆だらう。自分の信念に真直ぐなんだよ。
俺の細君をずつとやつてゐるのに、おまへはちつとも分かつちやゐない。」

などと漱石風に書きたくなつてしまふ。

小説家が小説家たちからご褒美をもらうなんてちゃんちゃらおかしいー
そのようなことを山本周五郎は言っていたらしい。
見上げたものだ。

さう云へば、初狩は確か唯一大月の里で富士が見える處だ。
勿論韮崎からは甲府よりも確りと富士が裾の方まで見える。
武田の遺臣の家系、富士を毎日のやうに見上げて、世界に冠たる独立峰の気高さを
一族隅々にまで行き渡らせたのかも知れない。



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Berceuse

この頃、と言ってもつい最近の3日ほどだけれど、
自分の音楽活動はまったく扨置いて、芥川也寸志さんの音楽と、
それを演奏するさまざまな楽団のさまざまなアプローチにまたハマっている。

今回もまたTriptyque for String Orchestra
第一楽章(Allegro)については過日書いた。

https://www.youtube.com/watch?v=OGZOEmDN5wk

上は2017年東京オペラシティーでの上海交響楽団(指揮・張亮)によるもの。
3楽章ともみな良いけれど、特に第2楽章(BerceuseーAndante)は秀逸と思う。

「berceuse」はフランス語で「子守歌」に相当する。
Online Etymologyに拠れば、

ーfrom bercer "to rock" (Old French bercier "to rock" a child in a cradle, 12c.)
+ fem. agent suffix -euse.

とある。
「揺らすもの」ということだ。
英語化すると「rocker」となるが、別の意味が今は優勢で、笑える。

芥川さんは大体「ベアスーズ」と聞こえるこのフランス語を題名にしている。
英語の「ララバイ」やドイツ語の「ヴィーガンリート」、
イタリア語(これがAndanteと相俟って一番の選択肢だろう)「ニンナ・ナンナ」に
しなかったのは分かるようで分からない・・・そうでもないか。
そもそも、日本人作曲家が「子守歌」としなかったのはどうしてだ。
(英語で歌作っているヤツが言うな!)

上海交響楽団はこの第2楽章を「催眠曲(スイミエン・チー)」と呼んだのだろうか。
ちなみに韓国語だと「チャジャン・ガア」で、赤ん坊が起きてしまいそうだ。

ー閑話休題

この「Berceuse」の調べ、リズム、とても日本的に感じるのだがどうだろう。
そんなことは明白だ、芥川さんはそういう作曲家だと叱られてしまうだろうな。
そうだろうけれど、<とても>と言っているのだ。
「極めて」でもいいのだけれど。

1953年作曲とのこと、芥川さん28歳ということになるが、凄い。
もう脂が乗っている。
16歳で音楽を志し、ピアノを始めて、ギリギリで東京音楽学校に受かり、
たった12年でここまでの完成度へと到達しているのだ。

昭和で言えば28年、私が生まれた30年代はすぐだ。
私が物心つき、己を取りまくもの=環境にそれなりの意識を向けるようになった頃に
40年代に入っていくのだけれど、当時の會津の田舎の、
或る気だるい春の1日の景を、音に、リズムにせよと言われたら
こうなるのではないかー
そんなふうに思えた。

そのnostalgiaはゆっくりと心に湧き上がってきて、嗚咽と共に鼻に抜けていく。

芥川さんはちょうど我が父母と同世代だ。
だから、と言うべきか、まさに私には「子守歌」に聞こえる。
芥川さんご自身にとっては、最初の妻紗織さんとの間の娘・麻実子さん
(1948年生まれ)のためのものだった。なんと羨ましい。

ところが人生というものは流転するのが常で、1957年、芥川さんは離婚する。

ああ、このBerceuseの流れと同じではないか。
全体は穏やかなテンポで進むのだけれども、安息と、その陰にいつも在る寂寥だが、
それがなんと陰であることを放棄し、表に出てくる。
寂寥が主となった時の流れの中、伏流する安息や長閑さがいつでもまた浮上を待つ。
そしてvice versaー

その安息と寂寥の「表面交代」のとき、ふたつが絡み、さらには渾然となる瞬間に
何か人生の実相の音を感じるのは私だけだろうか。


もうひとつ、私の涙腺を大いに刺激する事実がある。

上海の音楽人たちが、昭和20年代から30年代の「日本の音」を奏でるー
それも見事に!
音楽に中国人も日本人もないのだ。
何人などというのは、普遍を捉まえたすばらしい音楽の中、溶けてしまう。


実は、やはりワルシャワPCOの芥川解釈が一番好きだし、演奏も最高と思っている。
第2楽章もそうなのだが、なんと聴衆の咳払いや雑音が多すぎて幻滅甚だしいのだ。
まったくショーもない話でこの回終わり。

あ、第三楽章〜Prestoについてもいつか書くだろう。
(よかったら、そのときはまた読んでね。)



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富山恋しや

https://blog.goo.ne.jp/azumino_moo

Mooさんのブログによると、昨日一昨日北アルプスの常念山脈に初冠雪、ということで、
それはこの時季そうであっても不思議はないのだけれど、
珍しくも、それに北へと連なる後立山連峰より冠雪が先だったというのだ。

常念山脈は北アルプス(飛騨山脈)の最も南にある山の連なりのひとつ
(もうひとつは穂高連峰)で、当然それよりも北の後立山連峰の方が平均標高も
高いのだし先に雪が降る。逆転が生じたということだ。

お写真拝借と思ったら、我がブログではなぜか「uploadできない」となった。
なぜだ、今までできていたのに。
てなわけで、Mooさんのブログそのものですばらしい写真をご覧あれ。

*

「な〜ん、今夜はおれがだいてやるがちゃ。」

いきなりの富山弁だが、このブログではそれなり「まいどはや」である。
「な〜ん」はフランス語の「non」に近いそうで、「い〜や」だろうか。
「だいてやる」は「おごってやる」、「まいどはや」は「毎度」というより
「こんにちは」で、そこだけは(終助詞「はや」を除いて)大阪と同じかな。
「なん、な〜ん、なんなんなん・・・」は除いて後者2つはいずれも若者は
使わない表現だ(ろう)。

若者は使わない、言わないー
そういうことで方言が死んでいく。
残念すぎる。

富山出身のMooさんは典型的な越中人で、3音節語の真ん中を強く言う。
氏の東京在住時代、「〜がちゃ」=「〜のさ、〜のだ」などの代表的富山弁を実際
言われるところを耳にしたことはないけれども、西日本共通の「おる=(いる)」と
言いそうになったり、実際に言ったりしたことはあった気がする。

だからどうした。
いやさ、東京ではイントネーションがおかしいとか、西日本のことばだとかと
時に笑われたりするばってん、な〜ん、全国の地方人よ、団結してとにかく郷土の言葉ば
守ってくなんしょ、なのだ。

https://www.youtube.com/watch?v=UvstzYl8kZE

上のvideo seriesは非常におもしろい。
大阪から富山に越してきた「サクラ」くんの企画らしく、相方のさださんがすごい。

寒ブリと白海老の鮨、食いたいなあ。
富山の酒を熱燗でちびちび飲みつつ。



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フランス、大丈夫か

昨日は朝一番にトリチウム汚染水海洋放出のニュースに接し、
あまりの憤りに、一部変な文のままに投稿してしまった。
少なくともBBCはこのことを早速取り上げていた。
世界的な問題にもうすでになっている。

*

パリ郊外で歴史教師が断首されたという。
授業で表現の自由についての教材としてイスラムの預言者ムハンマドを揶揄する絵を
使ったことによる、ある若いイスラム信徒の凶行だったらしい。
マクロン大統領は早速反応し、フランスの価値観を前面に押し出し、
シャルリー・エブドーのテロ事件の時のように、いや、さらに強硬に、
それに従えと言っている。

結局は、<なんでも自由>ではないにしろその線引きはどうかという問題だ。

預言者を侮辱すれば殺されて当然というのはいくらなんでもと思うし、
野蛮なことだと一言で片付けられるかもしれないけれども、
人間はふつう他者の首を切りたいと思うものではない。
そこまでのことをさせてしまうのは大方には考えられぬほどの信仰心だ。

この信仰心というのは本当にどうにも扱いようがない。
これを根拠とした殺人や戦争は同じ信仰心厚い者たちから支持されるー
つまり<彼らの>宗教(解釈)としては善なのだから。

政教分離の「フランス人」にとっての自由受忍度と、イスラムの一部の人々のそれは
大幅に違っている。だから一定の数の本流(プロパーな)フランス人たちは、
自分らの価値観に従えないなら、イスラムの国へお帰りなさいと言うのである。
フランスは「フランス人」の国であり、その価値観や原則に従えない人々には
別段いてもらわなくても構わない、いや、むしろ出て行って欲しいという論理なのだ。

これは相当に論破するのがむずかしい。

マクロンさんはこの論理にさらに相当なところ傾いたように思われる。
フランスの動向が気にかかってしかたがない。



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なし崩し再び

毎日新聞によると、政府はトリチウム汚染水を海へ放出することを決めたそうだ。
宮城県知事の女川原発再稼働承認に続く、なし崩し的な暴挙だと私は思う。

じゃあ、どうするんだと訊かれるのだろう。

そもそも原発自体がどんなに技術の粋を集めても、自然の前ではuncontrollableな
ものになってしまうことが<絶対にありうる>ことを<知っていたくせに>
開発を進め、原発を設置したこと自体が暴挙だと私は思っているのだ。

汚染水や放射能まみれのゴミは世界中に蓄積していて、
それを最終的に安全なかたちで処理する技術はなく、
ありそうでも人間の技術である以上絶対はないのだからとにかく原発をやめるしかない、
これ以上造ってはならない、稼働させてはならないというのが私の考えだ。

火力発電だって大気を汚すし、二酸化炭素を排出するではないかと言われよう。
また、再生可能エネルギーだって、例えば風力発電なら本来通るべき風が遮られ、
なにかしらの自然循環を乱してしまう恐れがある。
しかし、原発は大事故が起こってしまえば、本当に大規模に取り返しのつかない事態に
唐突なかたちでなってしまう。
そのリスクは他の発電手段とは比較のしようがないではないか。
2011年の事故でも、本当にあと一歩で首都圏壊滅の事態だった。
それを防げたのは、人為によるものではなかった。
偶然、だった。

事故は起きるものだ。
原発の事故リスクも、それまでの有用性や効率などで十分ペイするという考えなら、
一部の犠牲はしかたがないという、原爆投下の論理と同じで、
その「一部」を蔑ろにする凄まじく恐ろしい考えだとしか言いようがない。

元々原発など造っていなかったなら汚染水海洋放出が適切だなどという議論もなかった。
「適切」であるはずもなかった。
それでも、造ってしまった以上、そして事故を起こしてしまった以上、処理は不可避だ。

処理をするというなら、世界全体に謝罪し、責任を追及されねばならない。
その処理が本当に現時点で最適なのかどうか全世界の科学者や政治経済関係者の
意見も聴かねばならない。

「風評被害」という言葉がまたぞろ出てきた。
「風評」もなにもないではないか。
実際にどんなに希釈しようが、トリチウムが海洋に放出されるのだ。
海が汚されることになんらの誤解もない。
たとえ仮に「ただちに人体に影響はない」レベルだとしても、
一体だれが喜んでそこの、そしてそこの周辺の産品を買うだろう。

それを知り尽くしているから全漁連は反対しているのに。

そして全漁連も結局は国の強硬策に反対しつつもいつかは振り上げた拳を下ろして
しまうのではないだろうか。
そんなことはないと怒られてしまうかもしれないけれど、
福島周辺海域の漁民でなければ所詮対岸の火事になってしまうのでないのか?
そうでないことを心から望むし期待するけれど。

トリチウム汚染水がどう広がっていくのかがはっきり分かれば、
つまりより多くの漁場が巻き込まれることが分かり、その情報が世界に拡散していけば、
きっと矛を収めることはできないはずなのだ。


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Penny Lane (partial cover by MNEMO)

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NHKBSの紀行番組で、2012年放送の野村佑香さんによるブリテン島港巡りの再放送
後編を仕事が終わってから録画で見た。

すばらしい番組だった。
ウイスキーの聖地と言っていいスコットランドのアイラ島から始まり、
ウェールズの首都ブリストルで終わる。
途中北アイルランドとリバプールも巡り、ここはイングランド人の土地ではあるけれども、
北アイルランドはもちろん、リバプールもアイリッシュが多いところとして描かれる。

アイラ島のBowmoreの職人は、whiskeyはゲール語の「uisge beatha=命の水」
から由来し、アイルランドからその製法が伝わったと言った。
ゲール語とはケルト語の一派であり、本来はアイルランド語のことだったが、
スコットランド語やマン島語、また後述のウェールズ語なども包括する。

岡野治雄くん(治雄ちゃん)はこのアイラ島に行ったことがある。
Bowmoreのdistilleryに行ったんだっけかな?

野村さんはArdbegの蒸留所にも行き、そこで風味の違いを理解する。
なにしろ「潮の香り」がすると興奮して話していた。
Ardbegの職人は、Bowmoreなんかよりはるかにこっちの方が美味いと自慢する。
おもしろいもんだ。
治雄ちゃん、いつか違いを知る飲み会をやってください。

「ケルト」がこのブリテン島港巡り後半のキーワードだった。
なぜならスコットランド、北アイルランドの後リバプールに来てもBeatlesの話に
当然なって、ギター1本波止場でBeatlesナンバーを歌う初老の男性がまず登場し、
自分はアイルランド移民の子孫で、Beatlesの少なくとも3人、John, Paul,
そしてGeorgeもそうであり、その彼らが世界に音楽の素晴らしさを伝えたことに
誇りを感じている、と言うのだから。

笑えたのは、波止場で歌っている曲は『ジョンとヨーコのバラード』だったこと。
日本の旅番組ということで、Yokoさんが出てくる歌にしたのだろう。
この人の家族がやはりみな音楽好きで、長男と長女だったかのギターをバックにした
家でのミニ・コンサートは、オリジナル曲で、歌詞もすばらしく、
長女の歌もプロ並みで驚いていると、野村さんは感動して泣いているのだった。

ケルト人の、ハープを使っての叙情歌は昔からの伝統で、
それがウェールズ(やはりケルト系民族の国)にも脈々と生きており、
その日あったこと、感じたことをハープをバックに即興で歌うのだそうで、
実際6、7歳の女の子が歌ったのだけれど、感動的なほどすばらしかった。

その女の子の母親は民族の母語ウェールズ語(ゲール語の一派)を大切にし
(国自体も英語と並び公用語にしている)、娘たちとウェールズ語で会話するのだ。

ウェールズと言えば、BadfingerのPete Hamがそこの出身だと書いたばかりだ。
また、ウェールズという国についても大昔ここで書いた。

https://mnemosyneoforion.blog.ss-blog.jp/2010-06-20

私はLiverpoolにもScotlandのEdinburgh、アイリッシュ海に臨むAyrまでにも
行ったことがある。Liverpoolからウェールズはすぐだったのに、
行くことはなかったのが惜しまれる。


ケルト人は歌好き、ということで間違いがない。
そのケルト人の国アイルランド移民の子、Paul McCartneyによるリバプールの
一角の歌をカバーした。
この通りにはもちろん行った。
そこでPenny Laneをウォークマンで聴いた!

ピッコロトランペットのソロはとてもではないが弾けない。
ゆえにちょっとコーラスに工夫をした。

なお、基本はギター1本で歌ったトラックに音を重ねていったので、
例のごとく、ドラムスはquantizeをかけられなかった。
まあ、人間らしい「揺れ」をも楽しんでいただければ幸い。
相当に頑張った後の「揺れ」なので、楽しめなくても許してほしい。

また、Johnの80歳誕生日を記念してのすばらしい番組がBBCで放送された。
John & Yokoの息子Sean Ono Lennonが、PaulとElton John、そして異母兄の
Julian Lennonとの対話をしたのだ。

泣けた。

https://www.youtube.com/watch?v=iCe8fdBeTCs

https://www.youtube.com/watch?v=XDcVMamYM6g


*

追記

BBCラジオでのSeanによるトーク番組だけれど、
SeanはElton Johnとの対話で「あなたのコンサートがなかったら私は存在して
いなかった」と言うところがある。

実はEltonはSeanの名付け親(Godfather)で、Seanはゲール語でイングリッシュの
Johnに当たる。ではどうして彼がSeanの名付け親になったかと云えば、
1974年にNew YorkのMadison Square GardenでのEltonのコンサートに
Johnがゲスト出演し、ここでJohnは長く(3、4年?)別居していたYokoさんと
期せずして会うことになったのだ。

YokoさんはJohnとの関係や、彼女こそBeatles解散の原因だとする世間の非難偏見に
疲れ果てていて、互いに「rest」が必要だとしてJohnをNYから事実上放逐していた。
JohnはLos Angelesで中国人May Pangと同棲しつつ、荒れた年月を過ごす。
(Mayとの同棲はYokoさんの了解があったそうだ。)

そんな二人が本当に思いがけずEltonのコンサートで再会したのだ。
そして別居が間もなく解けて、YokoさんはSeanを身籠ることになる。

ちなみにEltonは今Sir Elton Hercules Johnという名前になっている。
ミドルネームが「ヘラクレス」とは畏れ入る。
元々の名はReginald Kenneth Dwightで、イングランド人だ。


SeanのPaulとの対話はなにしろ最高のコンテンツで、私は聴いていて何度も泣いた。
異母兄のJulianとの対話も本物の兄弟愛が育っていて、すばらしい。


*

Penny Laneだけれども、私はこの歌を聴くたびに故郷の「藤峠」を思い出す。
中2の頃、幼馴染の文男くんと自転車で喜多方や會津若松などが在る會津盆地まで
遠出をした(盆地の西端會津坂下町まで12kmほど、そこから喜多方までは8km、
會津若松中心地までは9kmほど)ことがあって、そのときはBeatlesのアルバム
Magical Mystery Tourを頻繁に聴いていたからだ。

「藤峠」は河沼郡柳津町と私の故郷野沢の中間にある峠で、名の通り野生の藤が咲く。
柳津と會津坂下の中間には「七折峠」という最も険しい峠があって、そこを越えて
只見川を鉄橋で渡ってからさらに山間に入り、藤峠となる。
ここを越えれば私の町の東端に達するのだ。

藤の花のすがすがしい香りがする藤峠で、Penny Laneの音が、響きがよく合った。
ウォークマンはまだない時代、テレコを持って行きたかったがそれは危険すぎた。
頭の中で何度もPenny LaneThe Fool on the Hillを<流した>。
Paulの歌は、故郷の山間で聴くには最適だったのだ。



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女川原発再稼働に県知事同意

宮城県の村井知事が女川原発再稼働を認めるのだそうだ。
喉元過ぎれば熱さを忘れるー
典型的な事象だ。

宮城の人はそれでいいのか?
本当にいいのか?
そしてあなた方だけの判断、民意で決められることか?
宮城県の県境がすなわち放射線のストッパーではない。

福島第一原発のトリチウムなどを含む汚染水を海に放出する計画は今あまりの
反対の声で進めていないけれど、まもなく限界が来る。
あなたがたの県の海の近くですよ。

現実的な判断、ですか?

宮城県のみなさん、本当にいいのですか?


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喜多方ラーメンのこと

日本3大ラーメンとしての一角を成すという「喜多方ラーメン」として全国的に
認知された形式のラーメンは、なにも喜多方ばかりではなく、
周辺の町村でも有名になる前に食されており、我が町でも人口に比べれば多いと言える
軒数のラーメン屋(食堂)があった。

私がチビの頃は、母が化粧品店を営んでいたので夕飯が店屋物になることが多く、
母は商売上(その食堂の方もウチの顧客だから)できるだけ店の選択を分散するかたちで
注文したがったけれども、私は断然「春よし」のファンだった。
この店は、もちろん代替わりして今も営業中のようだけれども、
食べログとかの写真を見ると、どうも中華食堂という趣はなくなっている。

ここの「中華そば」は見た目も品が良く、なにしろ旨かった。
透き通る醤油ベースのスープで、塩けは薄めで豊かな旨味、麺は太めの縮れだった。
もちろん系統は「喜多方ラーメン」であるけれど、当時そんな言い方はなかった。
會津西部はもうみんな同じ形式だったのだと思う。

「喜多方ラーメン」の元祖は昭和2年創業の喜多方市に在る源来軒と言われており、
発明者は中国浙江省出身の藩欽星さんだとのことで、私もその伝説の人の店に高校時代
一回だけ入って、ご尊顔も拝した。
昭和2年、藩さんは屋台を引いて始めたというが、その後の「喜多方ラーメン」が
周辺に広がっていったのは、非常に急速なことだった。

私の父母は主に「支那そば」と言っており、時に「中華そば」とも言った。
もちろん私もそう呼称していたけれど、ラーメンという言い方もしたと思う。


今日私は千歳烏山に在る「(喜多方ラーメン)坂内」へ自転車で行った。
狛江在住時、「坂内」へは調布店に行くことが圧倒的に多かったけれど、
自転車で行くとしても相当な距離になり、クルマ利用だと駐車場代がかかった。
世田谷に住むようになって初めて区内の千歳烏山店へ行ってみたのだ。
直線で3kmほどの距離、自転車で気軽に行ける。

「坂内」の喜多方市本店には、高校時代に一度だけ入った。
このときすらまだ喜多方ラーメン・ブームは起きていなかった。
坂内のチャーシュー麺は焼豚が表面を埋め尽くし、麺が見えないので有名だった。
味は「春よし」のに比べさらに薄口だった。
高校生の頃はその卓越をはっきりとは認識できなかった。

私は高校時代、なにしろ喜多方では「まるわ食堂」の味噌ラーメン一辺倒だった。
地元の同級生から勧められて食して以来、本当に虜になった。
校則違反だったけれど、高3のときなど昼飯時に学校を抜け出して食べに行き、
さらに放課後にも行くことが数度あったほどだ。

以来今に至るまで「まるわの味噌ラーメン」以上の味噌ラーメンには出会っていない。

しかし、この「まるわ」は数年後忽然と姿を消してしまった。
なんという損失だろう!
「醤油の坂内」、「味噌のまるわ」できっと全国に広がったとしてもおかしくない
ほどにすばらしい味を生み出した店だったのに!



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「東西」は中国語で「物品」、行き来してこそ

昨日久しぶりに「克己会」というMick師を囲む会のLINEスレッドに書き込み、
会員諸氏の近況を報せてもらいました。
むろん詳しくは書きませんけれども、みな大過なく日々を送っているようでした。

中には近未来を計画し、積極果敢な姿勢の会員も数人いて感心したことでした。
コロナ禍で停滞しているわけにはいかないというのは、むろん生活のためであり、
また精神的な面においても言えるわけです。

Mick師は昨夜も「コマラジ」で生放送、仕事上で師がかなりディープに付き合った
Van Halenの特集番組でした。

スティックはもうライブ演奏の場に関わっているそうで、
一部のいわゆるライブハウスは、打てる限りの対策をしつつ、恐る恐るながらも
営業を再開しているよう。

ライブハウスなどでの公演で生計を立てているミュージシャンたちの受難は
大変なものがあるでしょうし、本当に気の毒です。
行政からの援助をもらうところまで漕ぎ着けた人はどれほどいるものか。
そしてそれをもらえてももう枯渇しているのではないでしょうか。

もちろんすべてを国や地方自治体に頼れるわけではないので、
新総理が好きな「自助」で糊口を凌いでいるのだろうし、
プロ・ミュージシャンとしての矜持を保っているのだろうと思います。

がんばれ
みんながんばれ
月は流れて
東へ西へ

とLINEのスレッドに書き込みました。
井上陽水さんの歌の一節です。
スティックの縁ある方だというのもありましたけれど、
ふとその歌詞が浮かんだのでした。



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半世紀近く見た夢

Baby Blueの手直しの最大のものは、ギター・ソロ8小節におけるbassでした。

そんなこたあ、ほんっとに大方どころかほとんどの人にとってどうでもいいことだ。
大笑い。
でも、まあ、楽しいんすよ、許してやっつくらはい。


Baby Blueをこうしてコピーっぽくカバーしてみて、
中学3年時のことがとにかく思い出されます。
私は自分が<通うしかなかった>中学が大嫌いでした。
中2の頃から一刻も早く卒業したいと思うようになっていたのです。
ド田舎の、ほぼ事勿れ主義教師ばっかりの中学で、嫌で嫌でしかたがなかった。
放課になればすぐ家に帰ってレコード鑑賞&singing along三昧。

BadfingerはCome and Get It(ポール・マッカトニー作)で本国イギリスにおける
認知を得て、No Matter WhatDay After Dayでいよいよ世界的人気を獲得、
アメリカでの人気を不動のものにしたのがこのBaby Blueでした。

ド田舎の中学でも、私の小学校からの同級生数人も洋楽ファンで、
Badfingerはやはり人気でした。

Baby Blueはcatchyな曲とは言い難く、これを好きになる田舎の中学生は
まずいないだろうというような感じでしたね、ええ。
でも私は5歳末期にBeatlesの洗礼を受けていますから、もう「洋楽」の要諦はしっかり
つかんでいました。

先日書いたように、サビのbassライン、コード世界がなにしろ切なくて、
Pete Hamの叙情能力の高さに痺れていました。
もちろんbassのTom Evans始め、バンドメンバーの曲理解度の高さにも脱帽でした。

窓が西と南にある自分の部屋で歌いまくった。
Peteのリード・ボーカル、Tomの甲高い声によるハモり・・・
エア・ドラミングやエア・ギターをしながら、夏は汗かいて。


思うに、15歳時に今のように歌うことはできていましたから、
カバーをしようと思えば後は楽器を揃え、それがある程度弾けるだけの演奏力をつけ、
さらに録音室や機材があればできたわけですけれど、それはなかったわけです。
1970年代で自宅録音などできる中学生などまずいなかったでしょう。

そこから半世紀近く経った2020年になって初めてBaby Blueを、
私の大好きな曲best 5に入るだろうこの曲を、
まあまあ納得のかたちで単独でカバーできて私は本当にうれしいのです。




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Can you find out the differences?

2曲、手を入れていて、そのうちの1曲がこれです。


(Baby Blue by Badfinger / Partial Cover by MNEMO)


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Johnの誕生日のブログ記事にいったいどれほどの方が来てくださるのかを知るために
データを見たところ、このBaby Blue関連の記事が<当社比で>いまだ多く読まれている
ことに勇気づけられて、ちょっと手直しをしたのです。

さて、数日前に発表したものとどこが違っているでしょう。
重要な違いは3つです。
すべて正解の方には、MNEMO-COVER BEST LISTENER賞を差し上げます。
(シャレですよ、念のため。)


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No Need to Be Afraid

昨日の記事中のReal Love、357アクセス中156人の方が聴いてくださいました。
ありがとうございます!
Twitterに久々リンクをはりましたが、「いいね」は1。
^^;)

Real Loveのカバーで特に自分がお聴きいただきたいと思うのは、2サビの上ハモです。
Paulすらそうはハモらなかったアプローチです。
(不要だと思ったかも、ですが ^^;)

Johnがもう孤独でなくていい、恐れなくていいという境地に至れたという
そのすべての原因であるYokoさんの愛、Yokoさんへの愛を、
こころから理解して歌いました。

聴いてくださったみなさま、本当にありがとうございます。

Johnの誕生日も終わりましたが、全世界的にOctober 9が終わるまで掲載しておきます。


*

東京はもうずっと雨で、さすがに嫌になってしまいます。
今は台風の接近で風も吹いているようですが、ひどい状況ではありません。

休日の今日も家の中に缶詰めなら、録音に勤しむことになるでしょう。
自分の愉しみのため、そして156人の心優しい方々のためにも、そのお優しさを
励みにしながら、<やる以上の最善>を尽くします。

いったいいつになったら治雄ちゃんとスティックとで、
録音室で作業ができるのだろう・・・

悲しいですけれど、その日のためにも、鈍ってしまわぬように音楽します!



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Johnの80歳誕生日に寄せて

今日はJohnの80回目のbirthdayです。

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Real Love (The Beatles / Partial Cover by MNEMO)


大昔にKMくんからギグ後に叱られたことがあった。
「MNEMOさん、ライブ慣れしてないのはわかるけれど、モニターの使い方にちゃんと
慣れて、音程しっかりとって唄ってくださいよ」と。
私は元来ピッチが悪いことはなく(そりゃそうだ)、指摘にびっくりしたけれど、
むろん耳の良いKMくんが根拠ないことを言うはずはなく、
確かにライブ慣れしていない(G Stringで再デビューしての初ギグだったか。
それまでのライブ演奏経験は4,5回だった)自分の至らなさなのだなと
恭しく受け入れた。

「俺らみたいな楽器担当者で、ピッチ外したら、もう終わりっすからね。
だからほんと、命懸けて練習して、本番がんばってんすよ。」

まったくだ、と私は思った。
プロとして当たり前のことだけれど、そうできない、しない者がいる。
いや、そういう者はプロではないということだ。


私のここでの録音成果発表会ー

器楽演奏者としてはプロじゃないからと甘えてしまうところは多いし、
とにかく自分の愉しみの延長でのことだから、不徹底はお許し願うしかない。
でも、最低限であれ、自分ができる範囲でのベストは尽くしている。
それって当たり前でしょう?


ジャンルは違うし、テクの精緻さでいったら最高峰であるclassical musicの音楽家と
一緒にすることはできないかもしれないけれど、rock musicianだって基本は同じです。
練習こそがほぼすべての源です。
すべてとは、本番での演奏の自信、それゆえに生み出される正確さ、美しさ、
力強さなどなど。

あとは弾く楽曲をどれほど理解し、またハートでつかんでいるか。

私はどうやってシンガーとしてのテクニックを身につけたかと問われたことがほとんど
ないのですが、まあ、もしかするとそれほどでもないからと思われているのかも
しれないけれど(笑)、「それは練習したからですよ、幼い時から」と言うより
ないのです。「練習」と書きましたが、自分に課すものとしてではなくてね。
JohnやPaul、その他のすばらしいシンガーたちの歌の模倣を楽しくやってきたんです。
例えば変声期頃の話ですが、「Paulのこの音程を地声で出さなきゃ!」と思いましたよ。
だからと言って何もストイックな、真剣無比なチャレンジでも練習でもなかった。
Johnと3度上でハモれる喜びのため、ただただ何度も唄ったのです。
同時に英語の発音も身につけていった、楽しくね。

その総時間は、むろんどのくらいだったか知りませんが、
レコードに合わせて歌うという習慣は少なくとも幼稚園の年長になるまでには
始まっていましたから、1日平均どのくらいだったかは分かりませんけれど、
Mick師にEUROXでデビューする機会をいただける25歳までにはほぼ20年、
「練習」を怠ることはほとんどなく来たわけです。

そしてさまざまなシンガーたちの歌詞世界にももちろん触れていった。
自分の生活の折々にそれは投影されたのです。
そしていつしか自分でも折々の心模様を歌にしていったのです。


なにしろJohnが生まれ、PaulとGeorgeに巡り合い、後にRingoと合流しなければ、
私の人生が全く違うものだったことは確かです。

悔いなどあろうはずがない。

ありがとう、John、と言うしかありません。
Happy Birthdayと。



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34 years have passed

今日はチロ(猫)の35回忌。

1986年、私はまだ若く、未熟だった。
今は若くなく、しかしそのまま未熟だ。
人間がなっとらん。

それでも、筋は通す。

世田谷に引っ越した去年すらも、10月8日夜から9日未明にかけて多摩川へ行った。
チロを埋葬した時刻に、その場所へと。
今日は、そしてこれから週末にかけて東京は雨らしく、行けないだろう。
去年まで33回、必ず行っていたから、残念だ。
ん・・・
クルマで行くという手もある。
あるけれど、ちょっと深夜すぎるなあ。

チロの歌、捧げるか。(再掲です。)






上の歌の中に出てくる「blazing Mars」だけれど、今まさに。
全天一明るい恒星「The Dog Star in the southern sky」もおとといは見えていた。
下の歌にはオリオン。
私が昇っていく星座だ。

1986年のチロ埋葬時、東京の夜は満天の星空だった。

今年はそうはいかないようだ。

それでも、チロよ、また見守ってくださいね!


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(Photo by tit)


追記

クルマで行ってきました。
線香(オリオンの形にして供える)は無理でしたので、
桔梗の花一輪だけ捧げてきました。


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News, News, News

愛だ恋だ、花鳥風月だというような歌世界に浸かろうとする今、
為政者の学問への介入や、非科学的(医学的)アメリカ大統領の倒錯したheroism、
アルメニアとアゼルバイジャンの戦争、自民党足立区議のLGBTQへの無理解・攻撃など、
枚挙に暇がないほど世は問題にあふれている。

今ほど「公助」が必要と思われる未曾有のコロナ危機で「自助」を第一に掲げ、
意に沿わぬ学者を排除するという新首相の「支持率」が高いなどという報道に
触れてしまうと、途方に暮れるしかない。
先の問題に心痛め、さらに「多数者」の、おそらくの無関心に心痛めるなんて、
今私は嫌だとしか言いようがない。

同世代のEddie Van Halenが亡くなったという。
Eギターにうつつを抜かしまくった、
インドネシア人の母とオランダ人の父の間に生まれた、
まさに典型的なロッカーだった。

このニュースの方が切実な私の今ー


RIP Eddie




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最良の寂寥

Maxで200人ほどの方々にここで私が録音したものを聴いていただくという営為ー
どれほどのことがあるのか自分にもさっぱり分からないし、
あまり分かろうとも思っていないのです。

いつかはやれるかもしれないDeafening Daphne(岡野治雄くんとスティックとのtrio)の
ギグにもしかすると来ていただける方が潜在するかもとも思ってはいますが、
このパンデミックによる音楽界の閉塞状況が打開される日はいつ来るのか、
まるっきり分かっていない今です。

ギグがやれたとて、なにかしらの野心を抱いてのことではない。
ずっと一緒にやっている仲間との奏で合いを、まずは自分らが楽しみ、
その生(なま)の楽しみを分かち合ってくださるオーディエンスのみなさまと出会うー
それがもしかすると身の丈に合った今のambitionかもしれません。

「洋楽」の歌うたいとしての、これはまあ、徒然草みたいなものなのです。
このブログタイトルのように、「the 'World'」とはthe world as I see itということで、
他者世界の歌曲を私なりに解釈し、私なりに歌ってみること、
自分の歌を温故知新したり、また新たに生まれ出る思いを歌にしたりということを、
きっとずっとやっていくのです。
「ずっと」と言っても無論いつかは終わりが来ますが。

*

Baby Blueのサビの、全音符Abから全音符Gというbassの2小節ー
数あるこの曲の聴きどころの中でも最高の部分だと私は思っています。
Peteのこころの音であり、それを刻まず弾いたTomの共感!
続いて同じく全音符でC#、Bと下降する2小節も哀愁に満ち溢れている。

この「哀愁」に中3のときの私が捕らえられた。
寂寥に、と言ってもいい。

哀愁や寂寥の音というものは数多くありましょう。
それを聞く人間の心模様もさまざまです。
そしてその無数の音とこころのありようの組み合わせの中、
自分にとって最良のものが見出され(聞き出され)、捕らえられてしまう。

Baby Blueはそんな私にとって最良の寂寥が表現された楽曲なのです。




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Baby Blue 後記

自分がカバーした曲でうっとりするというのは、なんともおぞましいところもあるけれど、
Baby Blueは本当に大好き中の大好きな歌なので、下手なりに懸命にコピーすべき
ところはして、ミックスも最善を尽くしたわけで、聴いていてなんだかうれしさが
こみあげてくるのですよ。

三日前の金曜にこの曲のカバーをしてみようと思い立ち、
そのとき、あきらめなければ日曜とかに完成するんだなあと思うと、
まだ1音もできていない中、私の、なにしろ意志次第なのだ、
近未来に<私のBaby Blue>ができているんだと自分に言い聞かせたのです。

鬼門はなんと言ってもギターソロ。
耳のいい方はお気づきでしょうが、シンセで弾きました。

できてみて、中3の頃からの夢が実現したのだとしみじみしました。
Beatlesになるのは到底無理でも、その弟子格のBadfingerのようになりたいー
Beatles系統のバンドで、Beatlesメンバーに認められデビューしたー
というような未来があればと念願していた頃です。
彼らの、Baby Blueのような音がいつかは自分で出せたら、と。
その夢は大体叶いました。

Pete Hamがウェールズ人だと昨日書きました。
ハモっているbassistのTom Evansはリヴァプール出身で、
Pete亡き後数年経ってやはり自殺してしまいます。
二人ともケルト人の血が濃い人だと私は思っています。
Beatlesのメンバーと同じです。
音楽的叙情、叙景にすぐれた民だと言っていいと思っています。

日本の東北人もね!


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Baby Blue (Badfinger / Partial Cover by MNEMO)

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私がすさまじい回数レコード(!)と一緒に歌った曲、
昨日はIt's Only Loveだったが、今日はBaby Blueだ。

コピーに近いカバーで、まあこの辺が限界。

*

この歌は中学3年のときにハマって、歌詞の細かいところまでの意味がどうしても
知りたくなって、中1のときギリシャはニコシアから帰国してきて
すばらしい英語を話す同級生のYNさんに、上の写真がジャケットだったこの曲の
レコードを数日貸して、訳してもらったのだった。

「baby blue」自体は明るく淡い青色のことだ。
曲中「My baby blue」と言っているから、歌い手(Pete Ham)にとっては
「淡く明るい青ちゃん」という彼女がいたのだろう。
ただ、言葉遊びとして、「baby」は愛おしい人のこと、「blue」はその人の印象とも
捉えることができよう。YNさんはそうは書いていなかったと記憶するがー
単に「私のベイビーブルー」とそのままの訳だったと。

今YNさんはNの部分のイニシャルも変わって某医科大の先生だが、
定年で隠居しちゃったかな?(笑)
憶えているかな、Baby Blue。

*

この歌は、アメリカでBadfingerの曲としては相当に売れた。
地味なところがあると思うのだが、さすがのlistenersがいっぱいいたんだなあ。

Pete Hamはウェールズ人。
音楽業界のゴロツキに騙されてしまい、ヒット曲をいくつも飛ばしたのに破産状態に
陥って、生まれてくる娘と妻を残し自殺した。

Without Youは彼の曲であり、Harry Nilssonが歌い空前のヒットとなった。
すっきり明るい曲を書くことがなかった人だった。
一見明るくても、淡い青で、憂愁があった。



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It's Only Love (Lennon-McCartney / Covered by MNEMO)

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It's so hard loving youー

itの仮主語構文は真主語を準動詞なら不定詞で受けるものと思い込んでいた頃、
この歌詞の動名詞には衝撃を受け、どうしてだろうとずっと思っていた。
ing形が不定詞の未然性と違い已然性のある準動詞だと認識したのはだいぶ後だ。

だからー

もうJohnは「愛している」のだ。
「君を愛しているのはつらいことだ」と言っているのだ。

It's hard to love you

では「君を愛するのはむずかしい」となって、現に愛してはいない。

この歌で英語講座をやってもしかたがないが。

中学・高校時代、何回歌ったろう。

(これ、聴き終わった後に、GeorgeのYou Like Me Too Muchのイントロが
脳裏に流れてきたら、あなたは立派なBeatlesファンでっす!)


(^^)/



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2020-10-02





これから週の最終コマ。

某中学の「総合テスト(定期テストでもある)」が実力問題過ぎて平均点が30点台前半、
入試に向けての喝入れなのはそれなり分かるけれど、生徒たちが戦々恐々に。
基本事項をしっかり押さえているかどうかの検証を部分的であれしないテストは
生徒学生をいたずらに不安に陥れることになると思うのだが。
生徒たちの気を静め、さらに向学心を高めるようもっていくことで腐心しそうだ。

そんなことを考えながらも少し録音もした。
やるべきこと、やりたいことにちゃんと向き合い、実行することー
そう自分に言い聞かせる。

*

Twitterでとある方が大和国葛城の二上山についてのツイートを折に触れ紹介くださる。
二上山は昨年大神神社境内、すなわち三輪山の麓から真西に望み、
その双耳峰の目立つ姿に魅入られた。
二上山には謀反の疑いで死に追いやられた大津皇子の墳墓が在る。
妃の山辺皇女は後を追ったという。

今日のとある方の二上山ツイートはヒガンバナ咲く山の写真だった。
朝鮮ではヒガンバナを「相思花」と呼ぶのだそうだ。
花と葉が同時に茎についていることがないこの植物の特徴から、
花は葉を思い、葉は花を思うと。

その花の名のすばらしさに感動した。

相思花
からびとはさう呼ぶといふ
げにふさはしや
皇子ら思へば

と、詠ってみた。



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5歳からBeatlesを愛してきた者として

パンちゃん(パンチーノ君)がB-Stringのためのオケ作りに邁進している。
私がそれに唄をのせるかどうかは私次第だけれども、期待していただいて光栄だ。
私のIT illiteracyにも忍耐強く待ってくれると言うし、申し訳ない。


私はこの企画に参加する以上、オケのqualityには一定のものを期待したいと思う。
コピーとして完璧とかという意味では全然ない。
しかし、複数の者が関わるなら、カバーとしての完成度が高くなければ意味が
ないと思うのだ。

私一人のカバーなら、器楽演奏上の難もみな自分でひっかぶれるし、
それはしかたがないことだと思っている。
けれど、複数のミュージシャンが関わるなら、むろん創造的なカバーになり、
しかも演奏の質が高くなければ<徒党>を組むことの意味はほとんどない。

B-Stringに参加される方がもしおられるなら、
<推敲>に推敲を重ねて、なにしろカッコイイ、しかも音楽的に正確な演奏をすると
いう気概を持ってくださればと思う。
私もそういうオケを聞かせていただいたら、食指が動くと思う。

偉そうに言うなと叱られそうだけれど、
少なくとも私のBeatlesファン歴、そしてシンガーとしての一定のqualityからの要望だ。
不遜に思われたなら、どうかお許しを。


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