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Peace of Mind

前々稿の「『寝床』の旦那論」に、私が拗ねてしまったような印象を受けた方も多いかも
しれないけれども、そういうことはないと申し上げる。

Twitterを始めたとき、私はRajoyの仲間たちとメッセージを同一にして世に訴えかけ
たいと願っていた。The Saviourでは反核、Is This Americaでは反トランプだった。
そのRajoy自体が早々に空中分解してしまい、情けない結末となってしまった。
少しでも期待をかけてくださった方がいらしたら、申し訳ないことであった。

そんな内部的な不調和を抱えつつ、結局その2曲でTwitterで繋がったかに思えた
同じような政治的志向の方々の賛同や共感はほとんど得られなかった。
(聴いていただけたかすら分からない。そんなものだ。)
ただ楽曲を発表したところで広がることはなかったのだ。
野心的YouTuberの思考なら、広島でゲリラ・コンサートを開いたり、
アメリカのトランプ支持者の前で歌ったりというようなことをして、
そこでインシデントないしはアクシデントが伴わねば<稼げない>というところか。

もちろん音楽自体に力がなかったということも認めざるを得ないかもしれない。

Deafening Daphneというtrioに戻って、私は長く相棒でいつづけてくれる
治雄ちゃんとスティックとでよりMNEMO personalなモチーフの曲に戻っていった。
そして間もなくパンデミックに世界全体が襲われてしまう。

もともとこのtrioには「上モノ=主に高音部を担当しsolo楽器が弾ける者」がおらず、
狂いつつある世界へメッセージをとなったとき、器楽的な不備を埋めるための
Rajoy結成だったのだが、うまくいかなかった、ということなのだ。

Covid-19の蔓延という事態になり、またそれがこうして長引く中、
私はカバーなどを中心にして録音のしかたを自習しながらここにその「結果」を
発表するという営みを始めた。

最高で200人ほどの方が聴いてくださる営みだが、その数は頭打ちだ。
発表する以上、もっと多くの方々にも聴いていただける努力をしなければならないのは
疑いないことなのかもしれないが、<一旦>限界を感じて、
ただ細々と営みを続けるというのもありではないか、と今は思うのだ。

もちろん「今は」、当座はなどと言っている裡に老いまくり、
その営みすらも永遠の頓挫にいつ陥ってもおかしくはないのだけれど。

老いが進行する中で、最も大事なのはpeace of mindなのだ。


老来りて、始めて道を行ぜんと待つことなかれ。
古き墳、多くはこれ少年の人なり。
はからざるに病を受けて、忽ちにこの世を去らんとする時にこそ、始めて、
過ぎぬる方の誤れる事は知らるなれ。
誤りといふは、他の事にあらず、速かにすべき事を緩くし、緩くすべき事を急ぎて、
過ぎにし事の悔しきなり。
その時悔ゆとも、かひあらんや。

人は、たゞ、無常の、身に迫りぬる事を心にひしとかけて、束の間も忘るまじきなり。
さらば、などか、この世の濁りも薄く、仏道を勤むる心もまめやかならざらん。

「昔ありける聖は、人来りて自他の要事を言ふ時、答へて云はく、
『今、火急の事ありて、既に朝夕に逼れり』とて、耳をふたぎて念仏して、
つひに往生を遂げけり」と、禅林の十因に侍り。
心戒といひける聖は、余りに、この世のかりそめなる事を思ひて、
静かについゐけることだになく、常はうづくまりてのみぞありける。


〜徒然草・第四十九段が沁みる。



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