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Nature is kind

昨日の記事で、

「私にとって『速やかにすべき事』とは、シンガー、詩人、作曲家として
<自分が納得できる>楽曲を残すことだ。」

と書いたけれど、では残してどうする、という問題がある。

ミュージシャンであれ、他の分野の藝術家であれ、またそうしたアート関係ではない
人であっても、多くが後世に残ること・ものを成し遂げたいと思うものではないか。

中島義道さん風に言えば、自分がこの世から去ってしまって以降のことなど
全くどうでもいい、関心がないということになり、それは一見識だ。
<ただの物質>に戻ってしまって以降のことなど知覚、認識できはしないのだ。

そうしたドライな考え方も大いに理解するけれど、私はその立場ではない。

吉田兼好の徒然草は、平安末期から鎌倉時代初期に生きたこのインテリの思想が
普遍的・不変的価値を持ったがこそ現代にまで生き延び、
おそらくこれからもずっと生き延びるのだ。

中島さんの著作も、彼の意に反し、ずっと読み続けられるだろう。
「どうせ死んでしまう」という空しさから出発した彼の思想は、疑いなく不変的に
参照する価値を持っている。

翻って私の音楽上の達成がそれなりの価値を持つかどうかは知らないにせよ、
それを信じて死ぬまで歌っていくよりないではないか。

Talking to the daisies one day at a time
I fall into a doze
Full of tears in my eyes

But I know
I know for sure
It's no use crying all day long
So I'll dream a happy dream and dry
all the tears I shed

ある日ある時
野菊に話しかけながら
ぼくはうたた寝をする
涙をいっぱい 目に溜めながら

でもね
ぼくはちゃんと知っている
一日中泣いていたってしかたがないから
幸せな夢を見て
その涙を乾かすんだよ


こんな歌詞を25歳の頃に書けたことは我ながら驚嘆するのだ。
今の自分であっても、その<人生への態度>を変えていないのだから。

自然を友にし、慰められ、また立ち上がるー

生きることも死ぬことも自然のことなのだから、
長短はあるが人生をかけて自然というものの本質を確かに感じ取って、
それが畢竟やさしいものだと結論して、
怖がらず、親しく、自然を、生死を、歌っていくー

それが私の歌うたいとしての、ひとりの人間としての、人生なのだ。

この確信が音になっていれば、必ず残っていく。
残って、どなたかにとっての、<私の「野菊」>になるはずだと思う。



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