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徒然に、赤裸々

人間誰しもなにかしら未完のままにして世を去るものだろうー
いや、すべてやり尽くして大満足の裡に息を引きとる人も少しはいるかもしれないが。
私はそんな稀有な幸せ者には多分ならない。

そういう者にとって、昨日掲げた徒然草・第四十九段で殊更に厳しい一節は、

「誤りといふは、他の事にあらず、速かにすべき事を緩くし、
緩くすべき事を急ぎて、過ぎにし事の悔しきなり」

であろう。

「速やかにすべき」か「緩くすべき」かの判断はむずかしい。
しかし歳を相当に重ねてから「緩くすべき事」というのはきっと少ない。

私のsinger修業は「緩くする」ことだった。
幼少5歳からのことで、それなりの成果と言える『機甲界ガリアン』のOPとEDでの
歌唱まで約20年のことだった。

この2つの楽曲で三浦徳子さんとの共作詞したわけで、
つまり作詞家としても、さらに同時期サントリーのCMに採用していただいた
我が曲Prideがあり、つまり作曲家としてもその20年の緩き修業の一応の成果は出た。

こうしてEUROXでデビューし、多くのオファーをいただくという大幸運に恵まれたとき、
「速やかにすべき事」がきっとたくさんあったと思う。
しかし私はその多くを「緩くすべき事」と考えて、
あるいはその余りの「速やか」さ加減に慄いて、
またの機会までとバンドをデビューから1年もたず脱退してしまった。

例えば当時イギリスのWARNERからオファーがあったLEVEL 42のイギリス国内
ツアーでの前座出演の話に私が乗れるど根性があったら、と思う。
Mick師はじめ日本のWARNER (Pioneer)のスタッフは、すでにイタリアWARNERでは
発売ということになったCold Line c/w Out of Control
アメリカのWARNERからも発売するという打診もあって、興奮され、
イギリス・ツアーが終わればそのままイギリスでファースト・アルバム録音までの計画を
お話しくださったのだが、私がそこで腰が引けなかったなら、と思うのだ。

これらの恵まれ過ぎとも言えるオファーのほぼすべてを私は「速やかに」は
受けることができず、「速やかに」できることでもないと自信を持てず、
苦しくなって逃亡してしまった。

そのとき「自信が持て」なかったのは、なにしろ作詞家としての自分だった。
作詞家としての自分の引き出しにはもう何も歌うべきことが入っていなかった。
スッカラカンだったのだ。

Henri君がバンドの実質のリーダーだったし、彼は作曲に燃えており、
いきおい彼のメロディーに私が歌詞をつけるという態勢が恒常化していたのだが、
彼が次々と作ってくるそれぞれの曲にどういうことばの世界をくっつけるのか
というのは悩みの種で、作詞家なのにことばに貧しいというどうにもならぬ
私には無理難題だった。

<いったい私は何を訴えたいのか?>

生半可に「愛と平和」をなどとホザいても、そのことばは陳腐で貧弱だった。
バンドの音楽は、音とことば(=バンドの詩的世界)が両輪だけれども、
私はリード・ヴォーカルであり、さらにその詩的世界構築も任されるとなると
完全にoverloadになってしまったのだった。
(EUROXはこういう詩的世界で行くバンドだというようなメンバー間の了解が
あってできたわけではなかったのだ。そして、たとえそれがあっても、
私は早々にことばを枯渇させていたはずだ。)

それゆえ私は、その「ことば」を「緩く」進みながら獲得していくしかないと思った。


年月は流れに流れ、Rajoyのプロジェクトを私は提唱した。
私には訴えるべきことが十分あると思っていた。
齢を重ねたメンバー同士、いよいよ「速やかに」事を成していこう、と。
それぞれの専門での結論的なプレイを、パフォーマンスを、Rajoyに残していこう、と。

しかし、皆が皆、「速やかに」そうできる態勢ではなかった。

そういうことだった。


私は今、個人として、「速やかにすべき事」を自覚している。
しかしそれでもその「速やか」さを焦りと同義にするわけにはいかない。

若い頃は「早く売れなきゃ」ということで焦ったこともある。
今、「売れなきゃ」などとは微塵も思っていない。
ミュージシャンとしては、そういう意味では恵まれている。

私にとって「速やかにすべき事」とは、シンガー、詩人、作曲家として
<自分が納得できる>楽曲を残すことだ。
分かり合えている治雄ちゃんやスティックとー
そして自分個人としても。

それでも、焦ってはいない。



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