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2020 師走随想〜「誕生日」

Sweet Rain of July(摩天楼の夜)のページが当社比で「多くの」方に
再訪されているようですので、週末、手直しをして上げるつもりでおります。
(Tacit Request Accepted 3として。)
ただし、土曜は娘の誕生日会食、翌日曜は義父の娘の誕生日会
(いずれも当日が誕生日ではありませんが)と連チャンでして、録音がちゃんと
できたらという条件付きです。お聴きになりたい方、どうぞご了承ください。

会食が立て込みますが、むろんCovid-19に感染しないよう細心の注意を払います。
なにしろ8月の私の誕生日会は娘が企画してくれたものの遠慮したほど慎重でした。
今日東京は感染者数600人を超えたようで、8月より酷い状況ですが、
娘と二人だけの会ですから、なんとか乗り切りたいと思っております
(大繁華街には行きません)。


しかしまあ、なにがGO TOだ!


*

私は自分のもそうですが、親しいと思っている友人、そして肉親の誕生日に拘ります。
<拘る>というのはもともとは嫌な意味ですが、それでいい。

それは、前記事A Day in the New Lifeで書いたように、
人生は一瞬で終わりうるし、また他者の死というものはそれを悲嘆する時間の
長い短いはあるものの、結局は通過して行ってしまうものだからこそ、
その儚さを少しでも<生前に>打ち消したい衝動に駆られるからです。

他者が生まれてくれて、あるいは、産んでもらえて、
私の人生の中私と<なぜか>クロスしてくれたこと、
しかも一定の友情や愛情を結んでくれたことはほとんど奇跡的です。
ここで書いている「私」とは、この私ですし、みなさんひとりひとりです。

本当の友情とか愛情とか、それは何かというのはむずかしい問いですが、
しかし少なくとも「私」の誕生日を忘れず、寿いでくれる存在は、
ほぼ疑いなく本物の友でしょう。

私はその親しかるべき存在の友であり、友であると表明したいから、
その人の誕生日には拘るのです。

「生まれてくれて、私とこの人生で出会ってくれてありがとう!」

これしかないではないですか。

自分が大切に思う人がいて、その誕生日を祝えない、祝わない、忘れているという
ことなら、それは全然大切になんか思っていませんよ。

<ただ>通過していくだけ、通過して行っただけの人です。


*

びっくり。

今アクセス解析ページに行ったら、この記事が5人の方に読まれているとー

https://mnemosyneoforion.blog.ss-blog.jp/2016-09-09-1

この記事最後の方の韻律を伴う「詩」は、なんともまあ、「浜松中納言物語」と
相響くものではないですか!

すごいなあ、この5人の方!



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