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降誕祭と新年祝う英語の歌を何故私はカバーするのだろう

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all voices are MNEMO's



三島さんの特集をdelayでいくつか見た。
いろいろな感想があるけれど、徴兵免除になった彼は、つまり、
同輩たちが次々と戦死していった現実を抱えて180度の価値転換をした戦後に、
国に身もこころも捧げられなかった無念慙愧、こころの空白、虚無を埋めるのは
結局古典文学、その美意識、それを育んだ天皇制に他ならないと断じたのだ。

確か、自決前に親しくしていた毎日新聞記者だったかに託した檄文の中に、
西欧文明・文化にだらしなく侵食される日本人を批判するくだりで、
「ロックンロール」ということばが出てきた。
どのTVの特集でも彼がBeatlesの日本公演を見たことに触れていなかったけれど、
彼はなんらの感銘を受けなかったという感想は何かの雑誌で遠い昔読んだ。

NHKのBSでの特集では、「武」の三島由紀夫、「平和」の川端康成と対照させた。
それが適切かどうかは私は寡聞にして知らない。
いずれも「日本の美」を追求した大作家同士であり、師弟関係さえあったのに、
その美をいかに残すかというところでのアプローチがまるで違ったのだろう。


私は天才作家の行動やその原理、論理、美意識について云々できる者ではない。
それは十分知りつつ、かう思つた。

「ロックンロール」は確かに欧米から日本に入つてきた。
しかしそれは音楽的なcreole(クレオール)であつて、純粋(!)欧米ものではない。
アフリカ的な音楽に英語が乗り、その英語により英米人の詩情が歌はれるやうになつた
ものだと言つても間違つてゐない筈だ。
アフリカ的なものから、欧米的な新しい詩歌が誘発された、
ないしは生まれたといふことだ。

もし和歌を音楽に乗せやうと試みるなら、
明らかに中国由来の雅楽に乗せるのが良いのであらうか。
或は民謡のやうな節回しをつけるのがふさはしいのであらうか。

日本人の美意識の発露の中心となるべき日本語による詩歌が、
このロックンロールといふかなりの可塑性に富んだ自由な音楽形式に乗り、
その美意識が世界中に理解される可能性は相当に高いと私は思ふ。

ただ、残念なのは、今のところ、英語以上にこの音楽形式に馴染む言語がないことだ。

日本語で日本の美意識(詩情)をロックンロールで表現するのか、
英語にしてさうするのかー

私はずつと後者でやつてきたのだけれど、未だに満足できるところ迄来てゐない。
もう無理かも知れぬ。

アフリカ音楽と融合した欧米音楽に日本のポエジーを乗せるクレオールの
可能性はあり、またすでにそれは存在してゐる。
クレオールのクレオールはしかし、未だ融合途中なのだ。




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