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2020 晩秋の夕暮れ随想

東京は4時を過ぎてもう夜の帳が半分以上降りた感じ。
久々の雨ながら、量はまさに「お湿り」程度。

冬至まであと3週間ですか。
いやはや、疾い、時の流れ。

なにしろもう秋も終わりですね、立冬がもうすぐだ。
秋を満喫することが一度もできていない。
せめて生田緑地の紅葉でも観てみたいなあ。
週末、晴れてくれるかな。

*

昨日CATVで洋画専門チャンネルをつけてみると、トルコの映画が。
やはりと言うべきか戦争物で、いかにトルコ軍兵士が対立する勢力の兵士に比べ
高い倫理観を持ち、正義のために戦っているかというプロパガンダ映画とも
言うべき自国礼賛のオンパレードでした。

監督はそれでも殺し合いの空しさについても強調していた。
「それでも」と言うのは、きっと国策的な内容にするのはトルコの映画監督として
しかたがないと思いつつ、ということです。
なんと戦争は愚かなことなのだろうー
それが一番監督が表現したかったことには違いないのです。

「エール」でしたっけ、古関裕而さんがモデルのNHK朝のドラマ。
古関さんが戦意高揚の楽曲を<書かされた>ところも扱ったようですが、
我が亡き父は、同じ郷土(=福島)の大作曲家として尊敬はしつつも、
「いくら戦時中逆らえないとしても、体制翼賛した罪は免れない」と言っていました。

古関さんがどう思って国策に沿っていたのかについては誰も分からない。
彼がこう言った、こう懺悔したと1次や2次の情報はあっても、
古関さんの本当の胸の内は自身にとっても当時よく分からなかった、
あるいは戦後になってなら、分からなくなっていたのではないでしょうか。

それでもー

周りが少なくとも日本の勝利のため本当に命を懸けて戦っている中で、
ふらふらした曲など書けるものかー
戦争をしている以上、勝つために、国を同胞を愛する作曲家ができることは音楽で
兵士や国民を励ますことだー

そう思ったのは間違いないのではないかと私は考えます。

それが過ちであったのかどうか。
戦争反対を貫いて牢獄に入ったり、獄死したりした人だけが正しかったのか。


私が古関さんの立場だったら、どうだったでしょう。
私は高度経済成長の中育ち、Beatlesに<うつつを抜かし>生きてきました。
そんなミュージシャンですから、戦意高揚の曲を書けと言われたとしても
拒否する勇気はあるつもりです。

しかし、家族などを人質に取られたら、どうにもできない。

自分の曲や詩に、精一杯の<普遍的な何か>を込めて、できうる限り為政者に阿る
部分を薄めようと努力するでしょう。

家族への愛、郷土の自然への愛、
特に同胞が殺され報復したものの己を襲う虚無感ー

そういうことをきっと歌うのでしょう。



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