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A Day in the New Life

昨夜上げたA Day in the Lifeのpartial cover、朝散歩の後少し手直しをしました。
また週末にでも手直しをするつもりです(どこをかはお分かりですね?)。
すぐにできる手直しなのですが、もう疲れてしまいまして・・・。

私がAm7とD7で弾いているところ、Asus2だという説もあって、
確かにそういう響きがあるけれども、D7にはどうしても行きたくなってしまい、
まあ、この辺は私には分からないので、どうかお許しを。

なにしろまずacoustic guitarをドンカマ無しに弾いて、vocalを次に入れ、
その後からいろいろ被せていくということをやった(よくある私のパターン)ので、
どうしてもまあいろいろ不都合が出たりします。
けれども、naturalなノリというのもあってね。

*

この曲は、大方のpopular musicファンなら「世紀の1曲」と認めるものです。
1967年の私の誕生日に全世界同時発売となったSgt Pepper'sの棹尾を飾る曲、
JohnとPaulの見事な連携で大作となったものです。

私はこの曲を少なくとも2年はまともに聴けないままになりました。
怖い、ということだったのです。

聴けるようになり、また詞の意味などを考えるようになってから、
John独特の「特に意味は無い、イメージだ」というようなことだと納得しました。
私も歌っていて、なにかしら感情を込めるというようなことはありません。

ただ、最初のスタンザでは、Johnの知り合いだった若いイギリス上院(貴族院)議員の
実際にあった交通事故死を語っており、人生などというものは、一瞬にしてその
最後が訪れてもなんらおかしくないものなのだ、というような気分で歌いました。
この事故死した人物は21歳という若さのGuinnessの跡取り息子、
Anglo-IrishのTara Browneです。

子どもの時に最初に聴いて恐れ慄いたのは、こういう無常をJohnが歌っていることに
もしかするとうっすらとではあれ、気づいていたからかもしれません。

他者の死というものが、「人生のある1日」に起こり、その事実が通過していくー
そして自分もいつか他者のa day in the lifeでそういう「news」になるのですね。

*

朝散歩では「古典講読」を聴きました。
菅原孝標女による「更級日記」がテーマでしたが、その本編は終わっていて、
彼女の作とされる(異論あり)『浜松中納言物語』の話でした。
「三島由紀夫のー」と講師が口にした時、ありゃ、また三島さん、と思いました。
「絶筆となる『豊饒の海』はこの『浜松中納言物語』にヒントを得た」と。
その物語自身も、紫式部の『源氏物語』は「宇治十帖」の影響を強く受けている、と。

「唐后」の、すでに法華経の教え通り女であっても成仏しているけれども、
自分を恋い焦がれ苦しむ中納言と娑婆でまた男と女として出会うために転生する
(それも自分とそっくりな、中納言が自分の分身として愛する異父妹の子となって)
というような話なのです。

「宇治十帖」の浮舟(東国育ちの受領の子、え、菅原孝標女もそうじゃないか!)は、
薫を拒絶する。救われない結末。
ところが、「浜松中納言物語」では、もう輪廻しなくてよい唐后が、
またもや女性(にょしょう)となって愛し愛される男の許へ
生まれ変わって再登場する、と。

日本の古典藝術や文学にも興味を示したJohnは、
生前Yokoさんにこの話をしてもらったことがあっただろうかー
そんなことを考えました。


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