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実験・新形態小説 『ハイドレインジャ』第2部〜その17

ハイドレインジャ
〜第2部その17

国道49号線を走りながら、俺はこれから行く「野尻」のことを少し凛に話した。

「チビの頃さ、野尻に上と下があるのは知っていながら、どっちがどっちなのか分かんなかった。」

「世田谷にも上野毛、下野毛、上北沢、下北沢、上馬、下馬とかあるわね。上下に統一的な意味はあるのかしら。」

「ないんじゃないの。地形的高低が分かりやすいから、同一地区ないし大雑把に大体同じ場所のそういった地勢上の違いで上下を言うこともあるし、道基準のもあって、例えば俺も間違えたことがあるんだけど、上総、下総だよ。」

「かずさ、しもうさ?ああ、千葉県のこと?」

「東京つまり武蔵国に近い方が上かと思って、千葉でも江戸川区とか葛飾区とかに隣接する方が上総だと思っていたんだ。」

「ところが下総だった。」

「そう。武蔵国は昔東山道で都につながっていて、信濃=長野県と上野国=群馬から下りて来る国だった。上野=上州にも『上』の字が来るのは、東山道で先に都から着くからで、下野=栃木はより遠いから『下』だった。」

「ふんふん。」

「上総は木更津とか千葉県の旧安房国以外の南東部とかで、一見都から遠いんだけれど、大昔は武蔵国経由でそちらには行かず、東海道上の相模国=神奈川県、三浦半島辺りから海路で行ったんだね。」

「その方が都より早く行けたってこと?」

「まあ、東海道で行けば上総の方が下総より到達しやすかったってことかな。」

「でもね、そんな蘊蓄を語っているとユウのブログ小説、終わらないわよ。」

俺は「キャハ」っと笑って国道49号線からハンドルを切って右折、<上>野尻に入った。ここの「上」の由来は、會津若松から越後へという越後街道で、下野尻より會津若松に近いからだ。


すぐ左に西光寺が在る。
この會津最西端と言える地区の、檀家も到底減る一方の過疎地に在る寺なのだが、日本全国に無数とも言えるほど存在するであろう他のいかなる同様の<田舎村の寺>とは歴然とした差を有するのだ。

それは、この室町期創建の浄土宗の寺が、国宝とも言える国の重要文化財である「紙本著色蒲生氏郷像」を有していることだ!蒲生2代目の秀行の後室振姫が贈ったものだと伝わる。

この賛付きの見事な一幅の絵は、京都妙心寺の僧逸伝により元和7年(1621年)に描かれたと言う。さらに岩倉大禅住職によれば、徳川家康真筆の和歌が添えられていたとも。

ぬれてほす山路の菊の露の間にいつか千とせをわれはへにけむ

岡半兵衛は慶長18年(1613年)に切腹しているから、この絵には関係がない。たとえ彼がその頃存命でも、半兵衛は寺側にとっては仇同然の存在だったから、この寺宝の贈呈に関わるはずはなかったのだ。なぜなら、彼は筆頭仕置奉行で麒麟山城城主だった頃、なんと氏郷が与えた五十石の西光寺寺領を召し上げてしまったのだ。そしてなぜか、隣の宿場町である私の故郷N町に在る大同2年(807年)徳一創建の如法寺と、俺と凛が訪れたばかりの原町の熊野神社に肩入れしたのだ。

この絵が振姫によって西光寺に寄贈されたとき、會津は振姫の息子・蒲生3代目の忠郷が治めていた。忠郷は家康の娘である振姫の子なのだから、時の将軍家光の従兄弟に当たる。とんでもないサラブレッドだ。この振姫と忠郷は、長年の目の上のたんこぶだった「専横者」半兵衛を誅殺し、いよいよ會津を思うがままに治められると思っていた頃だろうか。振姫は會津を襲った大地震後、何より神仏のご加護をということで倒壊したりした寺社仏閣再建を最優先したというが、義父蒲生氏郷が<なぜか>破格の帰依をした西光寺へ、君側の奸を討てたことへの感謝も込めて、後に大正期には国宝とされることになる義父の肖像を贈ったか。

しかし、墓所で俺は父と話したが、本当に半兵衛は秀行の寵愛をいいことにしたただの専横者で、家康に切腹を申しつけられて当然の不忠者だったのか。

そして何より、なぜそもそも近江人蒲生氏郷は、<赴任地>奥州會津の、そう由緒もない西光寺を愛したのか。

さらには、俺の母方はこの時期に近江の血を引いているというが、それは当然蒲生氏郷が會津に入ってきたときのことなのだろうけれど、その詳細は、ということだ。


西光寺の門前に立ち、参道から本堂の佇まいを見て、その奥ゆかしさに俺も凛も息を呑んだ。いや、もちろん何度も言うように、例えば奈良時代や平安初期創建の寺に比べれば<時代のつきかた>も劣り、また格式も村の寺の域を出ないものなのだが、半端ないほどに俺と凛の心を打ったのだ。

「どうして、ねえ、ユウ。私、とっても、とっても懐かしい。」

「ああ。Hannah Lynn、俺も全く同じ気持ちだ。」

俺たちは門前で何分も立ち尽くしていた。


(つづく)




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2024 如月雑記2

岡半兵衛重政のことを『ハイドレインジャ』で書いている今、
先ほどTBSニュースを見ていたら、新潟県東蒲原郡阿賀町の麒麟山酒造の話題。
米作り、酒造りを教える「大学」を開講、全国から生徒が来ているという。

阿賀町の中心地は津川と言い、合併前は津川町だった。
越後街道の主要宿場のひとつで、阿賀野川を使った水運の中継基地として栄えた。
薩長土肥政権に旧會津藩の版図をいいようされてしまい、
會津だった津川が新潟県に帰属することになってもう160年くらいか。
私の故郷西會津町はその津川を含む阿賀町と接している。
さらに次回書く予定の下野尻は、越後街道で私の故郷=野澤宿の西隣の宿場町、
そしてその次が津川ということになるのだ。

津川は水運の町で、また會津と越後の境にあったから、戦略上・地政学上重要な地だった。
城があり、麒麟山城とも言われた。
Mick師につながるのではと私が言う蘆名氏一族の金上氏(藤倉氏)が城主を長く務め、
戦国の荒波の中、城主は頻々と交代した。
蘆名氏を打倒した伊達政宗の家臣原田宗時、すぐに「奥州仕置」で蒲生譜代家臣北川忠信に
代わり、次には上杉景勝の家臣藤田信吉、さらに鮎川帯刀、
そして次に蒲生氏郷の子・秀行が會津太守に復帰して筆頭仕置奉行の岡半兵衛が
城主となるのだ。

まあ、とにかくじゃ、またもやsynchronicityってことじゃよ。

*

さて今日は棋王戦第2局。
角換わり後手不利というところで持将棋(引き分け)に持っていく作戦を奏功させた
世田谷区出身伊藤匠七段が、さあ、先手番でどうするか。

*

今日は数日の冷たい雨降りから打って変わっていい天気だあ。

歩くべ。


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