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実験・新形態小説 『ハイドレインジャ』〜第2部その11

ハイドレインジャ
〜第2部その11

熊野神社の鳥居へは、祖父母の墓から百歩ほどだ。

この熊野様は1522年、大永二年壬午三月遷座と言われる。N町草創期の「六人衆」という人々が創建に関わったと言われ、その六人の中、伊藤伊勢、松原但馬という名前があって、もちろん伊勢守(いせのかみ)や但馬守(たじまのかみ)であるはずはなく、おそらく己の出身地、ないしは先祖の出身地を表しているのだと思われる。伊勢はむろん現在の三重県であり、但馬は兵庫県である。

さらに文禄二年(1593年)にN町(当時は村)で検地が行われ、豊臣秀次の政権下、戸田美作、蒲生十郎右衛門、さらに佐治主膳の三名が主に担当したという。「美作(みまさか)」は岡山県の一部、「蒲生」は既述近江国(滋賀県)日野町出身の會津太守蒲生氏郷と同姓、さらに「佐治」という姓も近江国甲賀が発祥なのだ。

上で固有名詞を挙げた人々はつまり皆「西国」の出身であると言っていいだろう。俺はうろ覚えではあったが、鳥居の手前で上記のことを大体のところで凛に話した。

「だからユウの田舎、つまりこのN町ではお葬式に西国三十三所御詠歌を歌うのね。」

「いや、正確にはN町の原町という地区だけなんだ。ここのことだけれど。」

「え?じゃあ、他の地区は?」

「旧越後街道、今の国道49号線でN町の東からここに入ってきたけれど、最初の町並みは本町と言って、諏訪神社が鎮守なんだ。ただし表記は諏方、<訪>れるではなくて方向の<方>なんだけど。原町は本町から西進、大きなクランクを通過してから始まる町で、ここに江戸時代代官所などが在ったから、長くN町の中心だった。そうなったのも、原町の六人衆が室町時代に町を整備し、他地区よりも先進的で豊かな町にしていったからかもしれないね。その一環で、この熊野神社を勧請したんだね。」

「『本町』なんだから、そちらが最初の集落だったんじゃないの?」

「うん、そう考えられるだろうね。だから後発の原町は、西国からのいわば移民が造った町と言えるかもしれないね。本町は大昔からの土着の人たちが造ったということかな。もちろん勝手な想像だけれど。」

「諏方神社はもちろん信州長野の神社で、比較的會津に近いと言えば近いけれど、熊野神社は紀州だからはっきり西日本、あるいは西国よね。東北地方には源義家など源家の影響で八幡神社が多いって聞いたけれど、熊野神社も多いの?」

「多いとまでは言えないだろうね。ただ、會津にはこの熊野様より規模が遥かに大きいのが南会津町と喜多方に在る。特に喜多方・慶徳の新宮熊野神社は有名で、『長床』は国の重文だよ。」

「それはやっぱり原町と同じで、會津各所に熊野信仰をする西国の人々が流入してきたってこと?」

「そういうふうに言っていいんじゃないかな。まあ、鎌倉や室町時代って、国内で侍たちの移動が盛んだったから、全国的に西の者が東へ、東の者が西へっていうの、普通だったでしょ。いつもその例で俺がいつも真っ先に思い出すのは、戦国時代西国の雄で、幕末は討幕運動の最ラディカルな藩の藩主だった毛利家は、元々相模国、つまり神奈川が本貫だったしね。」

「これ、私たちのこの旅も、ブログ小説になるんでしょ。この部分不興を買うんじゃない。なんだか歴史講釈ばっかりで、しかも独断が多いし。」

俺は高笑いした。

「所詮娯楽よ、所詮気晴らしよ。」


そのとき、声がした。

「おいおい、娯楽や気晴らしで我々のことを語ってもらっては困るな。」

俺と凛は<貫入場所>を目をキョロキョロさせて探った。
やはりお社の内部からだ。鳥居前で一礼し、歩みを進めた。

「野澤熊と申します。」

俺は名乗って、

「お話を伺いたいと存じます。」

「おお、お主は郷土史家だった野澤一(はじめ)さんの息子殿じゃの。末子(ばっし)か?」

「いえ、三男、下から二番目です。」

「そうか。お主だけじゃのう、兄弟でここの歴史を詳しく知ろうとする者は。」

「はい。一番父親の形質を色濃く受け継いだようで。あなた様は?」

「伊藤伊勢じゃよ。さっきワシの名を挙げておったろう。」

「はい。お会いできて光栄です。」

「うむ。今は声だけじゃが、姿も見せようかいな。」

お社の扉とその下の賽銭箱の辺りの空間がグニャリと凹んだと思ったら、その窪みから室町期の装束の老人が現れた。

「元々伊藤という姓は、伊勢藤原氏ということであって、ワシの場合、ご丁寧に<伊勢藤原の伊勢>と名乗ったのじゃから、なかなかの念の入れようじゃ。それほどに伊勢の生まれであることを誇っておったのじゃ。」

「なにゆえ會津に来られたのですか。」

「先ほどお主、喜多方・慶徳の新宮熊野神社のこと、そして源義家公のことを言うておったな。」

「はい。」

「あの熊野様は義家様のお父上頼義様が建てられたのじゃぞ。」

「ああ、後三年の役でですか。」

「前九年じゃ。」

「そ、そうでした。」

「しっかりなされ。でな、身共はな、北畠親房様が伊勢国司となられ、さらにそのご長男顕家様が伊勢守になられた。後に顕家様が南朝で右大臣や陸奥大介鎮守府大将軍になられて陸奥国との縁ができたのじゃが、そのときについて行ったのがワシの先祖でな。

お主は先ほど祖母殿と話しておったな。」

「はい。お聞きになっておられましたか。」

「ああ、聞こえるんじゃ。あんまり近いでなあ。」

「はい。」

「祖母殿は霊山の生まれと仰せだったが、そこは南北朝の争いの時も堅固な要塞として使われたのじゃぞ。ワシの先祖もそこで戦った。」

「まさか、その時私の祖母の先祖とー」

「それはどうじゃろうな。調べてもいいが。」

「は、結構です。」

「そしてお主の祖母殿が霊山から會津に来たように、ワシも北畠の領地から會津に来たのじゃ。」

「なるほど。」

「・・・西国三十三所御詠歌のことじゃろ?」

「はい。」

「お主の推測通りじゃ。原町は土着の方々よりは我ら西国出身者の方が多かった・・・と言うよりは発言権が大きかったと言えるなあ。我々西国出身者の慣例が原町の慣例になっていったのじゃよ。

しかしなあ、野澤殿。それを知ってどうブログ小説の<おもしろみ>にするんじゃ?」

俺は「なんでもお見通しですね」と言って頭をポリポリ掻いた。

「簡単に言いますと、やたら自分はナントカ人、ナントカ県人とかと、あるのかないのか分からないその優秀性を言い募り、国粋主義やそれに類する偏狭で排他主義的なそういう者たちの思想の根拠がいかに薄弱かを訴えたいからここに<取材>に来たのです。」

「ほお。」

「こちらは藤原凛と申しまして、彼女の最初の夫はウェールズ固有の汎神世界の復活を目指すことで多少国粋的な傾向を持ったウェールズ人、あるいは彼ら自称のカムリ人でしたが、実は13世紀にユダヤ人を迫害したドイツ人の遠い先祖も持っていたのでした。ところが何十代か後、彼の父はイングランドのリヴァプールでユダヤ人とその出自を知らず結婚、自分はその二人の間の息子だったのです。その結婚は破綻したのですが。

同じようなことがどこの国の、どんな人の祖先にも、そしてその人そのものにも起きたこと、起きていることだと思うんです。

日本の国粋主義者はまずは異様なほどに朝鮮・韓国や中国を忌み嫌います。彼らと日本人が違うのは、縄文人というこの列島固有の人々の血が入っていることなのだ、などと珍説を披露します。まるで大陸や半島からやってきた弥生人や古墳時代人などいなかったかのように、都合のいいところだけつまみ食い、論議する価値もないことを滔々と述べるのです。

原町の人々は、伊藤様のように西国から来られ、以来5百年以上、この町では伊藤姓の人は多く、ここで血を繋げられて、まごうことなき會津人となっておられる。

同じ図式で、山口県を地元とする安倍晋三氏は、討幕功績随一、明治維新を断行した長州藩を生前誇っておられましたが、それこそ前九年の役で滅ぼされた安倍氏の末裔、元々はチャキチャキの蝦夷と呼ばれた陸奥人ではないですか。その人が福島の原発で津波により全電源喪失などありえないと国会で言い切って、必要な措置を講じぬまま2011年3月を迎えてしまった。陸奥の一部を壊滅させてしまったんです。もちろん彼一人の責任とは言いませんがね。

結局、人類ひとり一人が繋がっているんです。いわゆる人種を問わない。だって、昨日だったか、凛のご先祖である奥州藤原氏時代の36代前まで遡ると、なんとそれまでに687億を超えるご先祖がいたことになってしまうんです。その687億人が一人ひとり違う人間だったなんてことはありえない。

つまり、ご先祖は重複しまくるんです。

そのことを、その事実を、本当にみながしっかり認識すれば、人類世界が少しでも違ってくるんじゃないかって。」

「なるほどのぅ。」

伊藤伊勢はクルリと身を翻し、御神体へと向き直り、

「野澤一の三男熊、かように申しておりまする。どうぞ熊野大権現、十二神のご加護頂けますように!」

と念じて、「さらば」と消えていった。

「十二神。」

凛がつぶやいた。

「ああ、そうよ!」


(つづく)




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