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実験・新形態小説 『ハイドレインジャ』〜その24

ハイドレインジャ
その24

「彼はステージで、『I'm love. I'm love itself.』とも言っていたのよ。自分の名を呼ぶ者は救われると言っていた彼は、自分は愛、愛そのものだ、とも。もしかすると自分はMessiah(救世主)とでも思っているんじゃないかって疑ったわ。私が彼と付き合うようになって、確かに彼は事あるごとに愛だ、平和だって歌っていたわ。過激な歌詞の曲でも、最後は愛を説いた。でもそれは彼の渇望だったのよ。」

「なるほど。そのことからHannah LynnがAll You Need Is Loveの『Love』は抽象名詞ではなくて、原形不定詞だと、つまり『愛』ではなくて『愛すること』だという信念を俺に教えてくれたわけだね。愛を口にするなら、現に愛することを行う者であれ、と。」

凛は、

「Hannah Lynnて呼ばれるの、好き」

と言った。

「これからもそう呼んで、できるだけ。」

俺は彼女の手を握った。

「Hannahはヘブライ語で、英語ではgraciousness(雅さ)あるいはgraceなんだろ?」

「調べたの?」

「ああ。Etymology(語源学)が大好きだから。」

「よりAnglican(英国国教会ないし聖公会的)ならAnnやAnnaなんでしょうけれど。」

「Hannahはすてきだよ。チャップリンの『独裁者』の最ラストシーンで、絶望の淵でナチに迫害されるユダヤ人同士の恋人の演説によって再び希望を持ち、立ち上がろうとする女性がHannahだったね。」

俺はHanna Lynnの手の甲を撫でながら、続けたー

「しかしね、ヘブライ語、旧約聖書世界を、キリスト教もイスラム教も認めている、あるいはそれらの教えの基盤にしているのに、なんでユダヤ人迫害とか、3宗教間の対立が起こるんだろうって中学生の頃くらいまでは思ったもんだ。でも対立なんて、仏教諸宗派にだってあるし、もっと言えば親子にだってあるんだから。近親憎悪的なものっていうか。」

「Nigelはねー」

凛が声を震わせた。

「ヴェルナー礼拝堂で、それこそ『神の声』を聞いたのだそうよ。

<お前の祖先はここバッハラッハでヴェルナーを殺害したユダヤ人を殲滅するポグロムに主導的に関わった。そして1920年代、その末裔はハンブルグで船乗りをしていた。彼は結成されたばかりのナチの熱心な支持者となっていた。

その頃彼は停泊地イングランドの港町リヴァプールである女と懇ろになった。その女はユダヤ人だった。二人に生まれた女児はHannahと名付けられ主に母親にリヴァプールで育てられたが、船乗りの父はある日を境に全く帰って来なくなり、女も育児を放棄し、HannahはStrawberry Fieldという名の孤児院に収容され、後、大人になって1940年にウェールズ人Samuel Evansと結婚する。

すぐに男児が生まれる。しかしSamuelは間もなく徴兵され、ナチと戦ってドイツ領に侵攻、ところがここバッハラッハでシュタールエック城の高みからドイツ狙撃兵に撃たれ、戦死するのだ。お前の父親David Evansは、そのSamuel EvansとHannah Epsteinの息子だったのだ>と。」

俺は口をポカンと開けて聴いていた。
Nigelの父の生い立ちは、John Lennonのそれに似ている。
しかも、Strawberry FieldはJohnの家からほど近い。

「Nigelが『はっきり見えた』と言ったのは、その<神の声>が語るEvans家の歴史が頭の中ではっきりと映像化されていたっていうことだと思うの。

彼は汎神論者だった。ケルトの一派であるWales人、いいえ、彼ら自らの呼称であるCymru人としての誇りに目覚め、キリスト教やユダヤ教を茶化していたの。私に興味を持ったのも、日本が八百万の神の国だとどこかで知ったから、仏教という三大宗教も広く信じられているのに、神道という汎神論的土着宗教とどう共存しているのかを知りたかったからというのもあったらしいわ。」

「いや、なにしろただただHannah Lynnが魅力的だったからだよ。」

俺は苦々しい口調で言った。
凛は苦笑した。

「彼はほぼ純粋Cymru人だと信じていたの。Evansという家名はウェールズでは日本の鈴木や佐藤、田中に当たるほどポピュラーなものだしね。ケルトと言えば、アイルランドやスコットランドをまず連想する人が多い中、ウェールズ、Cymruここに在り、という気概で彼はギターを弾き、歌っていたのよ。日本の天台本覚論でいう『山川草木国土悉皆成仏』、だれにも、どんなものにも仏が宿るという思想が、Cymru人の自分にとってはその『仏』を神や妖精に置き換えるだけー
その親近感を彼はよく私に訴えたものよ。」

俺は嫉妬心を覚えながら聴いていたが、この長い話のまとめに入ったー

「ところが、なんと自分にはユダヤ人の血も、そしてそのユダヤ人をポグロムやホロコーストで迫害、殲滅しようとしたドイツ人の血も、しかもバッハラッハで現にユダヤ人コミュニティーを壊滅させた人の血も受け継いでいたなんてと彼は半狂乱になるほどショックだったということなんだね。

でも、いいじゃないか、Cymru人、ウェールズ人で汎神論の愛至上主義者だと自分が思うなら、先祖がどうだった、なにをしたとか、関係ない。俺だって、2のn乗で、例えばn=4とかになったら、その16人の先祖のそれぞれが誰でどんなことをしたかなんて全くわからん馬の骨だ。

ただ、まあ、Nigel君、いくらロック音楽の自由な表現だとしても、自分をMessiahみたいに言ってはいけなかったよね。どんなに汎神論こそが地球を救うと思い、その普及のため自分はリーダーになるんだと確信していてもね。」

凛はしばらく黙っていた。

そして、

「Call me Hannah Lynn, again」

と言った。


(つづく)




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