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実験・新形態小説 『ハイドレインジャ』〜第2部その24

ハイドレインジャ
第2部その24

「Mickさんのご先祖筋の金上氏は、蘆名氏による會津政権下で津川城、あるいは別名で狐戻城の城主だったのよね?」

凛が俺に訊く。

「そうだ。蘆名19代目亀王丸が幼くして亡くなり、世継ぎがなくなって、20代目当主を伊達政宗の弟・小次郎にするか、あるいは常陸の佐竹(結城)義広にするかで家内が二分されたとき、蘆名・藤倉氏分家筋の金上盛備は佐竹派として圧倒、しかしその義広は摺上原の戦いで伊達に敗れ遁走、常陸の実家に逃げ帰った。そして金上盛備は責任を取るかのように壮烈に討死する。次に津川城主になるのが、近江の蒲生家家臣で伊勢の出らしい岡(野)半兵衛重政なんだ。」

「それも何かの縁ね。」

「うん?」

「金上氏の後に、やはり東北出身の武将が津川城主になっていたらあまり数奇な縁を感じないけれど、次の城主がまるで地縁のない近江や伊勢から来た人になるって、かえってドラマティックな感じがするわ。」

「なるほど。秀吉さんの指図だけれどね。」

佐竹さんが味噌汁を持ってきた。

「ま、今回の訪問の趣意は岡半兵衛のゴどが主ガもしんにゲど(主かもしれないけれど)、まずは蘆名の一族、猪苗代兼載がここで詠んだ句の碑でも見でいガんしょ(見ていきなさいな)。

さみだれし 
空も月げの 
光かな

今正にその時季だべした(時季ではないですか)。おとといの夜なんか、句の通りの夜だったのよシ。句碑の傍らの紫陽花が茫っと見えでナイ、侘しい思いになったわい。

1505年の句なんだガらナシ。蘆名氏滅亡まであど(あと)84年という頃だナイ。」


朝食をいただき、俺と凛はまずはその句碑へと向かった。
蘆名ないし葦名、芦名という姓を持つ人は今やこの日本にはほとんどいない。桓武平氏三浦流の名門とされた武家も絶えてしまった。残るは、金上や藤倉という分家筋の血である。猪苗代という姓は蘆名と同じほど稀に見るものになっている。しかし、その猪苗代町出身の野口英世は、なんと、その猪苗代兼載の血を引くというから、血脈というものは果てしなくおもしろい。野口英世はつまり、蘆名一族の二百数十年後の末裔なのだ。

佐竹さんが言われた兼載句碑傍の紫陽花が朝露をいっぱいに載せて咲いていた。

俺は兼載に呼びかけた。

「兼載様、私は今日蘆名一族のことを調べに来たのではございませんが、蘆名最後の当主となった義広公が佐竹家から迎えられた戦国時代末期のこと、あなた様がこの句を詠まれた八十数年後に、主家・蘆名氏が滅びてしまったことを、私は複雑な想いで噛みしめ、ここに立っております。」

「野澤ユウ殿、根本の血を引かれるユウ殿ー」

俺には紫陽花の株下からの声が聞こえた。

「は!」

「藤倉は我が猪苗代家と同じ、蘆名の一族で、あの摺上原の戦いで生き延びてくれたのは喜ばしきことであった。そう、ユウ殿が音楽上の恩師となった藤倉転石は我らが一族の者じゃ。藤倉の者が會津を南に逃れ、上州桐生の、いや昔は下野国安蘇郡の根本山が、なにゆえその名が根本であるかは措きつつ、ユウ殿と藤倉転石とを結びつけるために必要な<偶然>であったのじゃよ。」

「なるほど。」

「そしてその偶然の後ユウ殿はその恩師の家が、14代も遡れる名家が、その前はどうであったかを探ったではないか。遠くは平将門に遡る桓武平氏三浦流の蘆名一族だったのじゃよ。その事実をユウ殿が探り当てたのじゃ。」

「大山祗命を主神とする根本山神社宮司及び神仏習合で薬師如来を本尊とする大正院14代当主、転石の従兄である孝康は、暦とした蘆名分家藤倉家の現代の当主なのじゃ。」

「はは。幕末、近江彦根藩井伊家の祈願所となった実に由緒正しい神社、そして寺院でした。」

「さよう。これも近江との縁よの。」

「は、本当ですね!」

「しかも、ユウ殿、そして凛殿かー 美しい姫じゃのぅー
そなたら二人が暮らす今は砧地域と呼ばれるところはー」

「彦根藩世田谷領だったのですよね。」

「さ、さよう。寛永10年、1633年、荏原郡の世田谷、弦巻、用賀、瀬田、上野毛、下野毛、野良田、小山、多摩郡は八幡山、大蔵、鎌田、岡本、岩戸、猪方、和泉がそうじゃ。慶安4年(1651年)には荏原郡の太子堂、馬引沢、多摩郡の横根、宇奈根も加えられ、また万治年間(1658~1660年)に開かれた世田谷村の枝村である世田谷村新町も彦根藩の御領地になった。」

「私とユウは、旧大蔵村に今住んでいるということになります。」

凛が言った。

「藤倉転石氏は旧猪方村ということになりましょうか。」

俺が言った。

「どうじゃな。この縁をなんと見る。」

兼載が言った。

「はい。そのおもしろさ、不可思議さを味わっているところでございます。」

俺はそう答え、

雨ぬくく
切株切に
地を掴む

という、亡き父の郷土史研究のご意見番だった日本史教師H先生のご岳父で、さらに我が父の俳句の師匠でもあった伊藤蛙浪子(あろうし)氏の句を詠んだ。

「兼載さま、あなた様の句碑と、ここには『槇立てり』の句碑もございます。」

「おお、その蛙浪子殿の句じゃな。」

「はい。

ゆく年の
耳にはるかな
槇立てり

このN町原町を拓いた『六人衆』の一人、伊勢藤原氏の伊藤伊勢の子孫、伊藤蛙浪子さんの代表句です。この『槇』とは樹齢約1200年のコウヤマキのこと、あの木のことです。」

「んん。見事じゃ。」

「それでは、縁の不思議さをさらに探って参ります!」

俺がそう言うと、

「我が末裔の顔が描かれた紙幣を数枚餞別にしようか」

と兼載さんは洒落た。

「それなら諭吉さんの方がー」

と俺は返して、凛と一緒に深々礼をした。


(つづく)



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2024 弥生随想

昨日はKと会って食事し、少し話をしました。

彼は私の小説をほとんど読んでおらず、彼が読んでくれないでは本当に厳しいなと
思いつつも、まあ、珍しく結末は決まっているので、自分のこれまでの2つの未完小説で
語ったことを新たな視点も含めて織り交ぜつつ、落胆せず書き続けるつもりです。

いや、Kに恨みを言う気はひとつもなく、実際楽しくしゃべって別れました。

そう、自分が勝手に自分にとって善かれとやっているだけのこと。

Kがなにしろ言うのは、私の構想がうまくいけば、world-wideな反応があることだと。
そういうためには私の楽友の優れた演奏力が必要だ、と。

小説を基に、その楽友にイメージを持ってもらい、あるいは膨らませてもらい、
彼らのmusicianshipを注いでもらえたら幸甚です。

今はただ小説を書き続けることです。

たとえ駄作でも。


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