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実験・新形態小説 『ハイドレインジャ』〜第3部その12

ハイドレインジャ
第3部その12

雪夫が下を向いて俺の話をじっと聴いていたが、仏教にも詳しい彼が口を開いた。

「ユウさんらしいお話で感じ入って拝聴していました。
ただね、ユウさん、仏教も、神はいませんが、一神教に近いところがありますよ。」

「ほう。詳しく聴かせてください。」

「『外道』ってことば、これは元々仏教のもので、仏の教え以外を指すんです。お釈迦さまは、涅槃経で、『一切外学の九十五種は、皆悪道に趣く』と言われています。この『外学』は外道と同じです。『九十五』は多数ということで、数字そのものに意味はありません。

紀元前5〜6世紀の、お釈迦さまの時代、ガンジス・マガダ地方にあった異教=バラモン教や六師外道を直接には指しているのですが、そんなものを信じるな、って。

もちろん、その後興ったキリスト教もイスラム教も外道になってしまいます。」

「なるほど。勉強になりました。お釈迦さまはご自分の悟りに百パーセント自信を持たれていたのですね。」

俺は応えた。

「ということは、日本で興った、本地垂迹説に基づく神仏習合は、仏教側から見ればいわゆる<方便>ですかね。」

「そういうことになりますね。なにしろ体系化ということになると、仏教の緻密な言語に圧倒されてしまいますよね。これはキリスト教も同じでしょう。神学の発達で、緻密な理論を持つから、諸土着宗教は包摂されていく。」

「うん。しかしまあ、うまく行きますね、アマテラスが大日如来とかね。翻案だ。」

「翻案ですね、ええ。」

「俺はするとやっぱり外道ですね。」

「ん?」

「仏の教えに帰依しているとは到底言えない。不勉強だ。在家であることを許していただいても、せいぜい<三界>の住民。火宅の人だ。

そして私はどうしても、他の教えを信仰する人にも、その教えにも、共感できるところがあるのではないかと探る癖があるんですよ。全面的に『悪道』と切り捨てることはできない。」

「ええ、分かります。」

雪夫が穏やかな声で応じた。

「相対主義はやはりお釈迦さまが論難されたものですが、その立場に立たないといずれか一方がもう一方を論破、あるいは滅ぼすようなことになってしまう。」

「そうです。論破なら結構ですが、殺し合いになってしまっては、それこそ<悪因悪果>です。」

「難しいですよね、本当に。」

雪夫が燗酒をグッと呷って苦々しそうに言う。

「人殺しで、ある相対的な見方では、殺した方が善で、殺された方が悪になんていうのではどうにもならない。」

「しかしそれは十分成り立っていますね、今も、世界中で。相対主義の限界はよく分かってるんですよ、俺もね。でも、例えば死刑がある日本は、人をどんな理由であれ殺めてはならないという絶対の立場をとらないから、全てが全てダメだということにはなりませんよね。一面がすべての面を表すはずはない。」

「ええ。だから、漸進的であれ、死刑廃止論者たちの主張を冷静に聞いていく姿勢を持つことから始めて、死刑がなぜダメか、なぜ他者を殺してはいけないかという哲学的、宗教的原理を日本国民が吟味する必要がありますね。」

「悪いヤローだ、やっちまえ、っていうのはほんと、簡単なことですからね。あまりに短絡だ。でも本地垂迹は、すばらしい相対主義じゃないですか。むろんそれを仏教的に嫌った坊さんも、それから神道側でも例えば度会氏なんかも廃絶の立場をとった。それが善なんですかね。熊野のありようは、悪なんですかね。」


「こむずかしい話だな、えぇ、ユウ、雪夫ちゃん。」

大堀が口を挟んだ。

「俺は目下、自分の体のことが心配で、それ以外のことなんかはほんとどうでもいいって感じでさ。」

「なんだ、どうした。」

俺が訊く。

「いやさ、調子悪いんだわ。医者にも行って、診断待ちだ。詳しいことはちょっと今は言えねぇんだけど。生老病死とは言うけどさ、病ってぇのは本当につらい。病になるときはなればいいのです、みたいな悟ったこと、俺は到底言えねぇ。」

「そっか。」

俺は深刻な事態とは思いつつ、

「ミツ(大堀のこと)、おめにはグラフィックの方で俺と凛のアルバムに貢献してもらわねぇと。頼むぞ、治せるものは、治せばいいんですっていう調子で、治してくれ。」

「ああ、わがってる(分かっている)。」

大堀は烏龍茶を啜った。

「しょーがねぇワイ。例えばあそこにカテーテル入れらっちも我慢するワイ。俺はユウ、凛さんの助けに絶対なりたい!特に凛さんの!」

雪夫も、凛も、転石、世耕も笑わずに話を聴いていた。


(つづく)




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