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実験・新形態小説 『ハイドレインジャ』〜第3部その6

ハイドレインジャ
第3部その6

俺の家は築年数はそれなりに経っているが、瀟洒な一軒家だ。
砧8丁目は成城2丁目に隣接しているし、しかも祖師ヶ谷大蔵駅からも近いから、豪邸も珍しくない地区なのだ。

その家は、俺のような売れない歌うたいが自分で建てられるはずもない。
俺の前妻克美の家だったのだ。
前妻は裕福な家に生まれた。彼女の父は公認会計士で、千代田区番町に豪邸を持っていた。他の不動産も多く持っており、埼玉の田舎に生まれながら、いくらやり手の公認会計士であっても、どうして一代でそこまでの資産形成ができたものかと俺は何度も考えたものだ。

その<秘密>のひとつとして、付き合いの良さがあったろうと思う。非常に厳格な人であったそうだが、クライアントの開拓に優れていたのは疑いがない。突っ走った人生だった。ゆえに長生きはできず、克美が小学生の頃に肝臓の病気で亡くなってしまった。そしてだからこそ、つまり厳格な父親の軛が外れたからこそ、俺のような根無草は克美と結婚できたのだ。彼女の母親も俺の将来性には非常に懐疑的だったけれども、比較的鷹揚なところもあって、結局娘の行動を黙認したのだ。

砧8丁目のこの家も、克美の父が所有していた建物だ。


居間に入ると、凛は一瞬不快そうな表情をした。俺以外の人間の匂いがまだまだ残っているのかと俺は思った。

「それで、ユウがその方と別れた時、この家をあなたに譲ったっていうの?」

凛が早速訊いてきた。

「信じられないだろうが、そうなんだ。譲ったとはまあ、体裁の良い言い方だ。月々家賃として払うものがあったけれど、これまでの総額では庭の地価ぐらいにしかなっていない。」

「別れる原因は、あなたの・・・。」

「そう。しょーもない話さ。Nigelみたいな男さ。」

「・・・その『道ならぬ恋』のお相手はどうなったの?」

「きれいに俺の前からいなくなった。」

「じゃあ以来一度も会っていないの?」

「そうだ。俺は暫くは探した。しかし克美に俺とは二度と合わないと誓約したのだから、その筋を通した。」

「通している、でしょ。現在進行形。」

「いやあ、もう何十年っていう年月だ。過去形でいいんじゃないか。」


俺は凛にEarl Greyを出した。彼女の好きな銘柄の物だ。

「こういう話はもっと前にしておくべきだったね。」

「いいのよ。私も敢えて訊かないできたのだし。」

二人は同時にEarl Greyを口に含んだ。

「あなたと会ってから、やっと半月くらい。目まぐるしい日々だったわ。」

「そうだよね。信じ難いほど濃密な日々だった。」

「ユウは克美さんの温情の中にまだいるのね。彼女はあなたにsingerとしての人生を歩み続けてほしかったんでしょう。私のような者がユウの人生に、それもあなたがよく言う『人生の最終盤』に割り込んできていいのかしら。」

「倫理的問題かい?」

「私たち、多くの私たちゆかりのDTsと会ってきて、彼ら彼女らそれぞれが生まれ、育ち、生きていた環境や社会、歴史的条件の中、それぞれの義(cause)を見つけ、貫いてきたと言えるでしょう?もちろん翻弄されてしまった人たちもいたけれど、みんな精一杯生きた。」

「そうだね。Hannah Lynnは藤原秀衡と信夫佐藤の女性との間に熊野で生まれた子の生まれ変わりだと知った。その生まれ変わりに、俺、父の熊野信仰により名付けられた熊という男が、還暦を過ぎてから、愛する野川と多摩川の地で出会った。

そう、そして僕らを結びつけている、出会わさせたと言っていい、近江の縁も忘れられない。しかもHannah Lynnは俺の故郷に暮らした人々の血脈すら継いでいた。」

「その縁も数奇だと思えるけれど、あるいは出来過ぎとも思えるけれど、きっとそうじゃないんだって私には思える。この世に今生きている人たちは、みんなどこかでつながっているの。もちろん地理的な制約が大きく、人類のスタート地点あたりまで戻らなきゃつながらないという薄すぎる縁の場合が圧倒的に多いでしょうけれど、この日本列島の場合だと、ここに今生きている人々は、鎌倉時代や室町時代まで遡れば、先祖がcrossすることもそう不思議なことじゃないって思うわ。」

「そうだね。俺はそのことについては気づいてはいたよ。みんなつながっているんだ、いわば兄弟・姉妹、親戚同士なんだって。だから誰かを、あるいは特定の人たちの集団を差別したり、蔑んだり、はたまた殺したりするなんてことは愚か過ぎるって。そんなことをすれば自分にその悪業の報いが来る。人を呪わば穴二つ、ってぇやつさ。

でも、そうだとしても、たとえ兄弟であっても憎しみ合ったり、殺し合ったりするのが人間てやつでしょ。ヒトはアフリカで類人猿から進化して発生したなんて言っても、そのことすら否定する者もいるし、はっきり『人種』間の優劣を信じる者もいる。人間は皆つながっているという意識が遍く広がるのもむずかしいのに、こう言う段階の人間もおびただしくいて、もう救いようがないんじゃないかって絶望する時も何度あったことか。」

「私たちはこの2週間、それでもあきらめずに最期まで、人類同士の友愛とその人類を支えてくれている地球環境保全を訴えていくべきなんだってあらためて確信したのよ。」

「そう。Hannah Lynnと俺は、遅く巡り会ったのは確かだけれど、とうとう巡り逢ったって言っていいだろう?もちろんもっともっと若い裡に逢えていたらよかったけれど、このタイミングはタイミングで、意味があるに違いないし、その意味を俺たちは今つかもうとしているんじゃいのかな。

俺が見てきた、そして今見ている世界と、Hannah Lynnが見てきた、そして今見ている世界は、まるで別宇宙のようなもので、その<multiverse>の様は、紫陽花の房のよう、いくつも同じ株から分かれて咲いている。

それでも俺とHannah Lynnの房は隣り合っていて、色もとてもよく似ている。俺という房が、根本が同じなのは当然として、なんと同じ枝から分かれたHannah Lynnという房があることにようやく気づいたんだ。」

凛は落涙する。

「私ね、私の家の庭に、冬になっても花びらを落とさず、薄茶色のドライフラワーになってしっかり立っている紫陽花があって、それを見ていると励まされてね。

今ー

ユウと私で、二人だからやれることが今私たちの眼前に広がったのね。提示されたのね。」


夕食には少し遅い時間になったが、俺は喜多方ラーメンを作った。
似つかわしくはないが、Vivaldiの『四季』をBGMにする。

「俺はこのうち、『冬』が特に好きなんだ。」

「雪国會津の生まれ育ちなら『春』かと思った。」

凛はスパゲッティを食べるかのように喜多方独特のちぢれ麺を口に入れてゆく。

「この『冬』を聴いていると、Hannah Lynnと行ったばかりの、あの松尾村あたりを中学生の頃独り歩いた冬の日を思い出すんだ。寒さ、寂寥、モノトーンの風景・・・それが慕わしいんだ、今は。歳をとったなあと思うよ。昔は『春』が一番好きで、『冬』なんか聞く気にもならなかったのに。」

「生まれ変わっても、會津に生まれたい?」

凛が真剣な眼差しで言った。

「そうだね。あるいは近江でもいいよ。あそこも雪が降るから。」

「そうね、四季があるっていうなら、冬にある程度は雪が降らなくちゃね。」

「野川のそばに生まれるのももちろん不満はないよ。雪はちょっとしか降らないけれど、決して降らないわけじゃない。俺、南国に生まれるのはだからごめんなんだ、どんなにそこが<天国に最も近い島>とかであってもね。」

「雪が肝心なのね、ユウには。」

「そう。そして生まれ変わったら、今度は早々にHannah Lynnと再会したい。」


俺と凛は、もちろん、その後激しく愛し合い、眠りについた。


(つづく)




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