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実験・新形態小説 『ハイドレインジャ』〜第3部その22

ハイドレインジャ
第3部その22

「ええ。その名前でKing Reguythさんのブログにときどき投稿させていただいております。」

ダイアナの鏡はそう答えた。

「お会いしたかったんですよ、私。」

凛が言う。

「この近くにお住まいなんですか?」

「そうですね。狛江市の東野川です。ご存じないでしょうけれど。」

「いいえ、知っております。第五小学校が在る方ですよね。」

「まあ、よくご存じで。母校です。」

二人はにこやかに話す。

ダイアナの鏡が蘭だったと知った俺ー
どう二人の会話に入っていいか分からず、どぎまぎしていた。

「いつもすばらしいコメントで、本当に、失礼ながら感心しておりました。彼のブログをどういう経緯でお知りになったんですか。」

凛がベンチのスペースを空けて着席を勧めながら言った。

「私、もう大昔のことですけれど、そちらのユウさんと付き合っておりましたの。」

<ダイアナ>はあっさり答えた。

「あのぅ、もしかして私と同い年くらいですか?本当に不躾でごめんなさい。私は1975年生まれなんですよ。」

凛がーこちらも、ダイアナからの衝撃的であろうはずの答えを聞きながらも、なんら動揺せず質問を続けた。

「そうですか。じゃあ、私は1コ下ですけれど、早生まれだから同学年ですね。」

二人は話をキャッキャッと愉快そうに続ける。
俺はいよいよout of place感を強めていた。
と言うか、逃げたいという想いすらあった。

ダイアナは、自分が地元志向で都立狛江高校に入り、慶応の文学部へ進んだこと、中心テーマは藝術論で、Walter Benjaminの「The Work of Art in the Age of Mechanical Reproduction」、特に彼の謂う「aura」について深く追究したと言うのだ。

The aura is exactly what cannot be reproduced in a work of art: its original presence in time and space.

ダイアナはすらすらとこの「オーラ」の定義を見事な発音で言い、凛と会話を弾ませる。

ベンヤミンは、作品の「オーラ」はまさに複製ないし再現し得ないものー
時空間におけるその作品本来の現前なのだ、と主張するのだそうで、俺は絵画作品、visual作品の話かと思って聴いていたが、考えてみれば、音楽もそうだろうと分かってきた。生演奏に勝る音楽などあり得ないのだ。

「私はKingさんの生演奏を何度も聴いたことがあるんです。」

ダイアナが言った。

「Kingさんは録音藝術としての音楽に偏る傾向が昔からあったのですけれど、2度目のデビューではそうも言っておられず、経験の少ないライブ演奏を人前でやることが重なりました。彼はそこで何かしらをつかみました。<不在の現前>についてです。」

「なるほど。」

凛が応えた。

「彼は失ったものを恋い焦がれて歌をつくり、空間に波動を生み出して、揺すり、ライブ演奏は人前で<不在を現前させる儀式>と知り、その儀式が厳かであればあるほどオーディエンスが深く感動することに気づいた・・・King Reguythは自分に『かすかなメシア的な力が付与されていることに』に気づき、自分が辿ってきた『過去はこの力が発揮されることを要求しているのだ』と自覚するのですね。」

凛は俺のブログに投稿されたダイアナの記事を見ながら言った。

「おいおい。」

俺はたまらず口を挟んだ。

「そのメシア的な力で救われるのはいつでも俺なんだぞ。」

「ええ。」

ダイアナが頷いた。

「その自分を救済する力が過剰になれば、その場にいる聴衆をも巻き込むのですよ。」

俺は絶句した。

「ダイアナさん、あなたっていう方は・・・!」

凛が目頭を押さえて言った。

「でもね、ダイアナさん。『aura』や『メシア的な力』を感得することについては、聴く人の想像力にもよる部分が大きいというのもありますね。」

「ええ。さすがに鋭くていらっしゃる。」

「生演奏でなくても、たとえreproductionであっても、受け手側がそれこそ不在の現前を鋭く感知できる人なら、もしかするとかえって感動が大きい場合も生じるうると。」

「そうだよ。」

俺はまた口を挟んだ。

「こんな爺が汗水垂らして歌っている姿なんか直接見ないで、音だけで想像逞しく聴いていた方がいいっていうのはあるさ。ジャケット写真も20年前のを使ったりしてさ。」

凛もダイアナもこれには大笑いした。

「俺は思うよ、ますます。音楽ってesotericなものだって。」

凛もダイアナも俺の方へ向いた。

「分かる人だけのものって言うかさ。内輪的って言うか。そりゃ、分かる人のパイが大きけりゃ大きいほど商業的にはいいし、それだけのlistenersを抱えられたら藝術的な価値も相対的に高いのかもしれない。Beatlesなんていういずれにおいても大成功した信じがたいほどの例もある。

でもさ、Beatlesって括ってしまうけれど、やっぱり、JohnやPaul、GeorgeそしてRingoそれぞれなんだよね。そのそれぞれが奇跡的なポエジー、歌を生み出す詩情を持っていて、それを協力してバンド音楽にしていった。

比較して言うのもおこがましいけれど、俺なんて、結局独りだったんだよ。バンドをやっていても、俺の詩情なんてメンバー個々に広がるものじゃなかった。分からせる、共感してもらう力が足りなかった。俺がまず、大した歌うたいじゃなかったんだ。非才ゆえの孤独だったんだ。」

「今は藤原さんがいらっしゃるじゃないですか。」

ダイアナが言った。

「それに、その昔のバンドメイツたちも、今の境涯でKingさんの歌に協力してくださるでしょう。」

「ああ。」

俺は頷いた。

「歌うべきことは昔だってあったさ。でもその表現のしかたが拙過ぎた。三流だった。じゃあ、今は一流かって問われたら、どうだろうね、としか言いようがない。昔よりはマシってしか言えない。

でもね、<蘭>が書いてくれたBenjaminのことば、『かすかなメシア的な力が付与されている』かもしれないと信じて、その救済の先は今回もまた自分自身であってもー 事実そうなんだけれどー
俺は俺の過去の総体を能う限りの歌うたいとしての力で歌いきる!」

三人はしばらく黙っていた。

するとー

「蘭さん、ユウの、長く『不在の現前』だったあなたがabsentでなくなった今を私、祝福したいわ」

と凛が言った。

蘭はそのことばに目頭を押さえた。


(つづく)





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