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実験・新形態小説 『ハイドレインジャ』〜第2部その29 第2部 ー完ー

ハイドレインジャ
第2部その29

「近江は本州の<くびれ>、まるで女性(にょしょう)の腰のような地形であり、日本海に近く、近畿であっても特に米原辺りは大雪が降るのが珍しくなく、さらには京のすぐ隣であり、また交通の要衝、北陸道、東山道、東海道が通りまする。」

半兵衛が言う。

「ゆえに流通の要になるのは必定で、物ばかりか人も各地へ血のように通って行ったのでござるよ。実際拙者も氏郷さまに付いて北陸道から越後へ、越後から會津へと入って参った。

雪はしかし桁違い、ことばもまるで異なって、当初は難儀いたした。それでも氏郷様は猪苗代湖を琵琶湖に似たりとお気に召され、磐梯山を伊吹山と見立てられた。黒川を若松と名を改め、清新なお気持ちで藩政を始められたのございます。

拙者は、氏郷様亡き後一時石田三成様や直江兼続様のお力添えをいただき当時米沢が本拠の上杉景勝様へご奉公致したのでございますが、蒲生家が宇都宮より再び會津へ戻り、二代・秀行様に格別のお引き立てをいただき、この稲川荘、會津西部および津川を任せていただいて、最前も申しました通り、蘆名殿のご統治以来地頭館が在った原町で伊勢や近江にゆかりある方々に出会い、また熊野神社が在ることにも近しさを覚えておりました。

そしてなにより拙者が驚きましたのは、原町の人々が弔いに西国三十三所御詠歌を何度も何度も繰り返し歌うのを聞き、目にしたときでございました。それはそうでございましょう。どうして會津で我が故郷と同じ慣わしがあるものと予期することができましょうぞ。

ご存じでありましょうが、三十三所の札所ご本尊はみな観音菩薩でございます。如法寺も、執金剛神の堂宇が在っても、ご本尊は鳥追観音さま、正式には聖観音菩薩さまで、『観音』は梵語avalokitasvaraの訳でござりますがー」

「玄奘は『観自在』と訳しましたが、最古の法華経の記述ではやはり『観音』が正しいのですよね。」

凛が言った。

「よく知っているなあ、聖公会のHannahが!」

俺が感嘆すると、

「ユウが『トーホグマン』で書いていたでしょう」

と返されてしまった。

「そ、そうだったね。英語にすればobserved voiceあるいはobserved soundだ。『観察された声、音』って、まさに詩人の、歌うたいの、あるいはミュージシャンの、表現すること・ものだ。むろん菩薩さまとは程遠いけれどね、俺なんかは。ただの凡夫だけど、まあ、山川草木の音を、そして愛を音にする者だ。」

「・・・お分かりいただけたか、ユウ殿、凛どの。」

半兵衛が言った。

「拙者は思い上がったところも確かにございましたし、あまりの出世にそねみ・ねたみを買い、やること為すこと傲岸、専横と見られ、また確かに、大地震の後済民が優先と、先代・氏郷様が目をかけられた西光寺の寺領も没収してしまいました。蒲生家の内紛はそれまでもありましたが、拙者が槍玉に上がってしまったのはまことに不覚千万なことでござった!

それでも、拙者は神仏に深く帰依し、戦国の世、乱世を、生き抜いたのでござりまする。

蘆名殿のご一統も、長岡藩士も、そして拙者や近江出身の奥州に生き、死んだ者も、むろんすべてがすべて善行をのみ積んで来たわけではござりませぬが、今こうして時間軸を自在に動き、頂点数16、辺の数32、面の数24の4次元世界より見守ることができる者となって、ユウ殿と凛どのお二人が、いまだ傷つく魂を鎮め、また熊野の教えを<音で>流布されるのを<心>から願っておるのでござりまする!」


如法寺の高野槙の太い幹に西日が差した。
いつの間にかそんな時刻になっていたのだ。
短いような、長いような時をユウと凛は過ごした。
そしてニイニイゼミが鳴き出しているのにユウと凛は気づく。

二人は、1611年會津地震の2年後、岡半兵衛寄進、大檀那となって造営した観音堂に深々合掌敬礼し、村畠がくれた野菜の傷みを気にしながら、磐越道西会津インターから東京へと向かった。


第2部 ー完ー





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