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実験・新形態小説 『ハイドレインジャ』〜第2部その28

ハイドレインジャ
第2部その28

「盛備殿が拙者の前にお出ましになったのは、今にして思えば・・・
と言いながら、<今>とは何でしょうな、拙者自身、時とは何ぞと思わなくもないが、それは措いてー

拙者が、會津太守2代秀行様のご寵愛をよいことにつけあがっていると見る振姫さまはもちろん、出世争いをする同僚蒲生家家臣にいずれ誅殺されることをお告げになりたかったのではと。

霊は、過去のことは語っても、未来のことは口にしないものなのでござるよ。それはただ、己が出現することで考えさせる、あるいは仄めかすものなのでござる。」

「分かります。」

俺は言った。

「出られた方にしてみれば、探れ、と言われているのです。あるいは、慮れ、でしょうか。

私は17歳の夏、この町の南、台倉山の大山祇神社本殿前に在るいわゆる『お籠もり旅館』で勉強合宿中に、大堀という友人他3人と最終日前の夜に、先ほど半兵衛さまが形容なさったのと全く同じように出現する霊を見ました。その御霊は一言も発しませんでした。

私がその御霊を目撃したことを思い出したのがその1、2週間後、大堀と一緒にその台倉山が見える、
そう、この如法寺の在る丘の下をBeatlesー
えっと、日本から遥か西に在る切支丹の国のひとつで音曲を奏でる集団ですがー
そのビートルズの曲をラジカセ・・・音が鳴る箱のようなものですが、それで聴きながら散歩をしていたのです。本当に大堀と共に驚きました。いや、戦慄が走ったのです。

どうして今まで思い出さなかったか。なぜ御霊目撃の夜が明けてから、誰一人そんな驚愕の体験を口にせず、あるいは思い出すこともなく、台倉山を下りたのか。

私はすぐに父の蔵書を漁りました。父の持つ、あるいは父自身が書いた、この町の歴史にまつわる本を読み漁ったのです。すると、幕末、半兵衛さまに過酷な処断を下した徳川家康とその子孫ら15代に亘る江戸幕府の最終末に、會津は朝敵の汚名を着せられ、薩摩長州を中心とする討幕勢力に見せしめのように痛めつけられたのです。そのとき、同盟を結んでいた越後・長岡藩が和平を望みながらも薩長らと結局戦い、壊滅しました。その折、生き延びた藩士たちは會津へと逃げたのですが、中田、岡村という二人が我が町で薩兵に捕まり、首を刎ねられました。」

「長岡藩を率いた河井継之助の家は元々近江膳所藩藩士の家だったとのことのよ。」

凛が言った。俺が憤死した長岡藩士の話を何度も書いてきたものだから、自分でも調べたのだった。

「近江人は本当にいろんなところに散らばったのね。」

「その長岡藩士の首塚が在ったところで、私はその霊目撃のことを思い出したのです。」

私は続けた。

「その首塚の話が父の持つ本に書かれており、私はあの御霊は中田氏か岡村氏のいずれかだと確信したんです。そしてその出現の理由を探りました・・・いや、過去形では言えない、今でも探っておりますが、おそらく、幕末の乱世、義に生きた侍のことを、そして今や忘却されてしまっていると言える自分たちの生き方死に方を、私に伝えてほしいということなのだろうと。まもなくその首塚はバイパス建設と圃場整理で跡形もなく撤去されてしまいましたが。」

「さようでありましょうぞ。」

半兵衛が即答した。

「<こちら>の『會津憤死武士の会』で<お目>にかかっているかもしれませぬが、中田氏、岡村氏とは交流がありませぬ。しかしきっとそういうことでありましょうぞ。野澤殿の表現力に、そして大堀殿のご協力に期待されたのだと。」

「はい。ただその大堀はほとんど私の著作を読んでくれていませんが。」

半兵衛はしばらく押し黙っていたが、

「いや、大堀殿もきっと力を尽くしてくださいましょうぞ、霊は未来を語ってはいけませぬが、これは希望でありますので」

と言った。

「ええ、そうだといいですね。」

俺は応えた。

「すみません、話の腰を折ってしまい。」

「お気になさるな。」

半兵衛は話を続ける。

「拙者はこの會津稲川荘、城が在った津川城へ参って、すでに伊勢や近江からこの地へ移り住んでいる者がいることを知ったのでございます。」

「すみません、伊藤伊勢さんとかですか?」

「その方は西暦でいう1500年辺りの住人でござるゆえ、そのご子孫ですかな。なにしろ、近江や伊勢の者に限りませぬが、西国の者が奥州に来るというのは、奈良・平安期のいわゆる蝦夷征伐から始まっておりまするが、源頼家・義家親子の前九年・後三年の役、さらにその子孫頼朝による奥州合戦で武功あった者に土地を与えたことで盛んになったと申してよろしかろうと存じまする。」

「私の先祖は、その奥州合戦で滅ぼされた奥州藤原氏の許へ招かれた近江の鋳物師だったと聞いています。」

「さよう。」

半兵衛は知っていたというような返事をした。

「そして信夫佐藤氏と縁を結んだ、と。」

「はい。ご存じなのですね。」

凛は固唾を呑む。

「拙者が原町の熊野神社にある夏の日参詣した折のこと、阿弥陀仏すなわち素戔嗚命、垂迹して家津御子大神に祈りを捧げておりますと、蜩(ひぐらし)の声が一斉に止み、強烈な西日が俄かに差して、その光差す方より声がしたのでございます。

『そなたは伊勢の出の岡半兵衛か』と。

拙者がさようでござる、近江より會津へ来た蒲生様に仕える者でござると返事をしますと、

『西隣の上野尻に在る西光寺へは参ったか』

と。

先代の主氏郷様が頻々と立ち寄られたに聞いておりまする、と拙者は答え申した。

『そなた、西光寺の禄を大方取り上げたと聞く。』

拙者は、肯ってから、大地震があり、済民が優先ということで、仕方のうございましたと応えたのでございます。

『それにしては如法寺とここ原町の熊野神社には手厚い保護をする者じゃのぅ』

との仰せ。すみませぬ、まずは熊野さまのご加護と、世乱れる中、我が武勇のため、執金剛神さまにおすがり申した次第でござりますと申しました。すると西からの声は、

『小笹という名の娘がその寺に暮らしておる。そなたの前の主・氏郷殿が寵愛なされた娘じゃ。その小笹は、遠く藤原秀衡の血を引くのじゃ。

知っておろう、若き秀衡は妻と熊野本宮大社参詣で中辺路の道すがら、乳岩のところで俄かに産気づいて、子を無事そこで産んだ妻を置いて神殿へと向かった故事じゃ。』

拙者は、

『存じておりまする、熊野権現様のお告げがあって、赤子と母は狼が守り、岩からは乳が滲み出して滴り、赤子はそれを飲み無事で、秀衡殿は確と参詣できたというお話でございます』

と答え申した。
そしてその西からの声はこう告げましたー

『その赤子は秀衡と信夫佐藤の女との子じゃ。その生まれ変わりが小笹、狼ならぬ大蛇に守られた女じゃ。そしてその小笹の生まれ変わりが400年後にこの會津の、西国三十三所御詠歌を歌う者たちの町の鎮守熊野神社に来る』

と。」

凛はワナワナと震え出す。

「さらに西の光は言われたー」

半兵衛さんは続けた。

『そなたの前の主氏郷は、近江瀬田の唐橋で百足退治した藤原秀郷の子孫だが、奥州藤原も然り、元々縁があった。氏郷が小笹に惹かれるのは無理もなかった。西光寺に預けられた芹沼の小笹の150年前、<先代>小笹はそのときは武州角筈に生まれ変わっておった。熊野の神官の家藤白鈴木の九郎の娘としてじゃ。』

「子孫、血のつながりということばかりでなく、生まれ変わりか!」

俺は叫んだ。

「西の光の声はさらにー」

と半兵衛が言った。

「『400年後に来る小笹は、藤原凛という名になっておる。その凛が本当に来たら、そのとき伝えよ。伴の者は狼でも蛇でもなく、熊であるが、この熊は凛と近江、伊勢の頃からの深き因縁にて其方に出会う、と。この熊野の導きは、二人の熊野信仰の流布のためじゃ。

自然という言葉を使う勿れ。自然とは、人間が周りの事物を己ではないと思うからこその切り離した見方から生まれた言葉じゃ。熊野の者にとって自然などという言葉はない。一体だからじゃ。区別がないからじゃ。主客がないからじゃ。

この世はすべて<私>、なのじゃ。』」

凛は泣いていた。
俺も打ち震えていた。


(つづく)




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