実験・新形態小説 『ハイドレインジャ』〜第2部その27
ハイドレインジャ
第2部その27
「拙者が津川城の主になる前の城主、つまり先代の城主・城代の中に、蘆名氏一門の金上盛備殿がおられました。拙者から見て4代前でござるが、第一級の領主であられたのです。文武両道とはこのお方のこと、領民からもその優れたお人柄のことを耳にしておりました。
慶長年間のある日の夜、拙者が津川城で寝ておりますと、外でパリッパリッという音が聞こえたのでございます。格子窓から見てみますと、それこそ狐火が浮かんでおります。『それこそ』と申すのは、津川城は別名狐戻城と呼ばれるからでございます。どういうことかと思案しておりますると、俄かに我が寝室の壁前に乳色の煙のようなものが突然現れ、それが間もなく人形(ひとがた)になるのでございます。
その人形は拙者の名を呼ばれました。どなたさまでござるかと拙者は訊きます。すると、
『拙者は桓武平氏三浦流蘆名一門金上の盛備でござる』と。
拙者は、
『おお、承知しておりまする、秀吉さまにも目をかけられるほどの優れた才知と勇猛果敢さで従五位下遠江守にも昇られた。しかし天正17年摺上原における伊達殿との合戦で先陣指揮をされるも、奮戦空しく命を落とされたお方』
と申しました。すると、
『あれからまだ二十年余り、世はすっかり蘆名のことなど忘れてしもうたー』
と盛備さまは仰られた。
『源頼朝公の昔から、我ら蘆名の祖となる三浦義明七男・佐原義連より400年近く會津を治めて参ったにも関わらずじゃ。
この津川城を狐戻城と名付けたのは藤倉伯耆守盛弘で、建長4年(1252年)のこと、その子盛仁が金上と姓を改めた。それから拙者の代まで337年経って、この津川および稲川荘(=西会津町)を伊達に、そして上杉に、乗っ取られてしもうた。それでも、すぐ後に、何らの恨みなき近江の蒲生氏が會津に来られ、黒川を若松とし、近江や伊勢からの人材を登用され、會津は新しい世へと舵を切ったのでござるなあ、と。それについては蘆名の者としてせめてもの慰めでござる。
ところでー』
と盛備さまは続けられた。
『蘆名には三浦義明の弟為清の流れもあり、相模の石田(小田急線・愛甲石田駅にその名を残す)を頼朝さまより与えられておったが、為清の孫為久が木曽義仲討伐での功で<近江の石田村>を与えられ、その末裔として石田三成公がその地で生まれるのじゃ。その石田殿の娘御を、半兵衛どの、貴公はお娶りなさった。そのことについても、蘆名一族としては感じ入る次第じゃ。
さらにのー』
と盛備さまは仰る。
『三成殿のご次男重成殿は関ヶ原の後津軽へ逃げられ、杉山と姓を変えた』と。
野澤殿、貴公には杉山という名のお知り合いがござりましょう?」
「え!は、はい。羽後・秋田にルーツを持ち、相州伊勢原で育った靖幸という<太鼓叩き>がおります!」
「ハハハハ!」
と半兵衛は笑った。
「その方のご先祖は津軽から秋田へ南下したのでしょうぞ。あるいは蘆名つながりで、秋田・久保田藩へ国替え・減封となった佐竹氏を頼ったか。
また、伊勢原とは拙者と同郷の伊勢の者が元和6年に創建した伊勢原大神宮からそう呼ばれるようになった町でござるぞよ。しかも、愛甲石田はその伊勢原に在るではありませぬか!その杉山殿は蘆名為清が頼朝様から与えられ本拠にした相州石田へ知らず帰ったのでしょうぞ!先祖帰りじゃ!」
俺は驚きまくって声が出なかった。
<岡野>半兵衛、<杉山>(石田)重成・・・って、俺のbandmatesの名字じゃないか。
「ユウ、こんなものよ。」
凛が言った。
「例の2のn乗よ。戦国末期って今から420年とか昔でしょう。例のごとく25年1世代ということで割れば、商はほぼ17、2の17乗は、131,072、私たちはそれぞれ戦国末期から今に至ってそれだけの数の先祖を持っているのよ。被って当然、偶然が偶然でなくて当然。」
「え?何だそれ。」
「なにしろ・・・つながってしまうのよね。」
「うん。でも出来過ぎでしょう、この話。何も俺のバンドメイトの姓が出て来なくたっていいのにさ。その岡野くんも杉山くんも藤倉転石師匠のお世話になっている。まあ、最初に転石師につながったのはbassist岡野くんだが。」
「さてー」
とその半兵衛さんが再び語り出す。
「拙者岡(野)半兵衛は最前申しました通り、伊勢の出で、伊勢と紀州の境に在る熊野速玉大社を尊崇して参った。ゆえに津川城主となって初の領内視察で原町に熊野神社が在り、また近隣の慶徳(喜多方市)にも新宮熊野神社が在り、拙者は親しみを覚えたのでございます。
そして寺院としては、金剛山如法寺を崇敬申した。その時の如法寺は正観音菩薩ではなく執金剛神像を堂宇を建てて祀っておられた。これは先ほどの仁王像とは違って平安末期かそれ以前の製作であり、この寺が徳一大師により大同2年に開基されたことを裏付ける堂々たる像であった。武士の身共として、まことに頼もしい護法善神でござった。」
「執金剛神って、ギリシアのヘラクレスが原型なのよ。」
凛が言った。
「Mighty Herculesか。」
「そう、剛力無双。」
「俺の歌にある。Love That's Trueっていうんだ。I can move like Mighty Herculesって歌詞がある。それこそ岡野くんと杉山くんとで3-part harmonyを構成して歌ったことがあるよ。」
「さて金上盛備殿はさらにこう告げられたのでございますー
『我が遠祖藤倉伯耆守盛弘以来、我ら藤倉・金上一族は神仏への信仰厚く、蘆名滅亡後會津より南へほぼ一直線で関東の桐生へ逃れた我が親族は、幾多の山道を経て根本山へと辿り着いた。根本山の名は、熊野速玉大社の「根本熊野権現」に拠る。天台宗系の修験道ではこの「根本」という言葉は、比叡山の「根本中堂」にもあるように、まさに<大元><根源>のことである。
根本山の隣の峰が<十二山>というのも、熊野信仰、特に速玉大社信仰をはっきりと示す。神仏習合の根本山神社=大正院は、速玉大神すなわち薬師如来を祀る。』」
「・・・ここまでお話を拝聴しているとー」
と俺は感慨これ以上深くならないというような体で言った。
「藤倉転石師匠が私のデモテープの歌に惹きつけられたのもあったにはあったけれど、きっと私の藝名を母の母の姓である根本から『根本ひろし』としたことが私をデビューに導いてくださった理由として大きかったかもしれないですね。<根本>という、転石師匠にとって物心ついた頃から目にしてきた文字ですものね。」
「それはありましょうぞ。」
半兵衛さまが応えた。
「さて、さらに続けましょうぞ。」
(つづく)
第2部その27
「拙者が津川城の主になる前の城主、つまり先代の城主・城代の中に、蘆名氏一門の金上盛備殿がおられました。拙者から見て4代前でござるが、第一級の領主であられたのです。文武両道とはこのお方のこと、領民からもその優れたお人柄のことを耳にしておりました。
慶長年間のある日の夜、拙者が津川城で寝ておりますと、外でパリッパリッという音が聞こえたのでございます。格子窓から見てみますと、それこそ狐火が浮かんでおります。『それこそ』と申すのは、津川城は別名狐戻城と呼ばれるからでございます。どういうことかと思案しておりますると、俄かに我が寝室の壁前に乳色の煙のようなものが突然現れ、それが間もなく人形(ひとがた)になるのでございます。
その人形は拙者の名を呼ばれました。どなたさまでござるかと拙者は訊きます。すると、
『拙者は桓武平氏三浦流蘆名一門金上の盛備でござる』と。
拙者は、
『おお、承知しておりまする、秀吉さまにも目をかけられるほどの優れた才知と勇猛果敢さで従五位下遠江守にも昇られた。しかし天正17年摺上原における伊達殿との合戦で先陣指揮をされるも、奮戦空しく命を落とされたお方』
と申しました。すると、
『あれからまだ二十年余り、世はすっかり蘆名のことなど忘れてしもうたー』
と盛備さまは仰られた。
『源頼朝公の昔から、我ら蘆名の祖となる三浦義明七男・佐原義連より400年近く會津を治めて参ったにも関わらずじゃ。
この津川城を狐戻城と名付けたのは藤倉伯耆守盛弘で、建長4年(1252年)のこと、その子盛仁が金上と姓を改めた。それから拙者の代まで337年経って、この津川および稲川荘(=西会津町)を伊達に、そして上杉に、乗っ取られてしもうた。それでも、すぐ後に、何らの恨みなき近江の蒲生氏が會津に来られ、黒川を若松とし、近江や伊勢からの人材を登用され、會津は新しい世へと舵を切ったのでござるなあ、と。それについては蘆名の者としてせめてもの慰めでござる。
ところでー』
と盛備さまは続けられた。
『蘆名には三浦義明の弟為清の流れもあり、相模の石田(小田急線・愛甲石田駅にその名を残す)を頼朝さまより与えられておったが、為清の孫為久が木曽義仲討伐での功で<近江の石田村>を与えられ、その末裔として石田三成公がその地で生まれるのじゃ。その石田殿の娘御を、半兵衛どの、貴公はお娶りなさった。そのことについても、蘆名一族としては感じ入る次第じゃ。
さらにのー』
と盛備さまは仰る。
『三成殿のご次男重成殿は関ヶ原の後津軽へ逃げられ、杉山と姓を変えた』と。
野澤殿、貴公には杉山という名のお知り合いがござりましょう?」
「え!は、はい。羽後・秋田にルーツを持ち、相州伊勢原で育った靖幸という<太鼓叩き>がおります!」
「ハハハハ!」
と半兵衛は笑った。
「その方のご先祖は津軽から秋田へ南下したのでしょうぞ。あるいは蘆名つながりで、秋田・久保田藩へ国替え・減封となった佐竹氏を頼ったか。
また、伊勢原とは拙者と同郷の伊勢の者が元和6年に創建した伊勢原大神宮からそう呼ばれるようになった町でござるぞよ。しかも、愛甲石田はその伊勢原に在るではありませぬか!その杉山殿は蘆名為清が頼朝様から与えられ本拠にした相州石田へ知らず帰ったのでしょうぞ!先祖帰りじゃ!」
俺は驚きまくって声が出なかった。
<岡野>半兵衛、<杉山>(石田)重成・・・って、俺のbandmatesの名字じゃないか。
「ユウ、こんなものよ。」
凛が言った。
「例の2のn乗よ。戦国末期って今から420年とか昔でしょう。例のごとく25年1世代ということで割れば、商はほぼ17、2の17乗は、131,072、私たちはそれぞれ戦国末期から今に至ってそれだけの数の先祖を持っているのよ。被って当然、偶然が偶然でなくて当然。」
「え?何だそれ。」
「なにしろ・・・つながってしまうのよね。」
「うん。でも出来過ぎでしょう、この話。何も俺のバンドメイトの姓が出て来なくたっていいのにさ。その岡野くんも杉山くんも藤倉転石師匠のお世話になっている。まあ、最初に転石師につながったのはbassist岡野くんだが。」
「さてー」
とその半兵衛さんが再び語り出す。
「拙者岡(野)半兵衛は最前申しました通り、伊勢の出で、伊勢と紀州の境に在る熊野速玉大社を尊崇して参った。ゆえに津川城主となって初の領内視察で原町に熊野神社が在り、また近隣の慶徳(喜多方市)にも新宮熊野神社が在り、拙者は親しみを覚えたのでございます。
そして寺院としては、金剛山如法寺を崇敬申した。その時の如法寺は正観音菩薩ではなく執金剛神像を堂宇を建てて祀っておられた。これは先ほどの仁王像とは違って平安末期かそれ以前の製作であり、この寺が徳一大師により大同2年に開基されたことを裏付ける堂々たる像であった。武士の身共として、まことに頼もしい護法善神でござった。」
「執金剛神って、ギリシアのヘラクレスが原型なのよ。」
凛が言った。
「Mighty Herculesか。」
「そう、剛力無双。」
「俺の歌にある。Love That's Trueっていうんだ。I can move like Mighty Herculesって歌詞がある。それこそ岡野くんと杉山くんとで3-part harmonyを構成して歌ったことがあるよ。」
「さて金上盛備殿はさらにこう告げられたのでございますー
『我が遠祖藤倉伯耆守盛弘以来、我ら藤倉・金上一族は神仏への信仰厚く、蘆名滅亡後會津より南へほぼ一直線で関東の桐生へ逃れた我が親族は、幾多の山道を経て根本山へと辿り着いた。根本山の名は、熊野速玉大社の「根本熊野権現」に拠る。天台宗系の修験道ではこの「根本」という言葉は、比叡山の「根本中堂」にもあるように、まさに<大元><根源>のことである。
根本山の隣の峰が<十二山>というのも、熊野信仰、特に速玉大社信仰をはっきりと示す。神仏習合の根本山神社=大正院は、速玉大神すなわち薬師如来を祀る。』」
「・・・ここまでお話を拝聴しているとー」
と俺は感慨これ以上深くならないというような体で言った。
「藤倉転石師匠が私のデモテープの歌に惹きつけられたのもあったにはあったけれど、きっと私の藝名を母の母の姓である根本から『根本ひろし』としたことが私をデビューに導いてくださった理由として大きかったかもしれないですね。<根本>という、転石師匠にとって物心ついた頃から目にしてきた文字ですものね。」
「それはありましょうぞ。」
半兵衛さまが応えた。
「さて、さらに続けましょうぞ。」
(つづく)
2024-03-06 10:07
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