SSブログ

実験・新形態小説 『ハイドレインジャ』〜その11

ハイドレインジャ
その11

凛は一瞬体を硬直させてから、隣に座る俺を体を捻って数秒見つめた。
そして向き直り、しばらく考えを巡らせている様子だった。

「太宰の、亡くなった年に書かれた『桜桃』の冒頭、ご存じ?
『われ、山にむかいて、目を挙ぐ。』 I look up to the mountains.」

俺は「いや」とだけ答えた。

「詩篇、第121ー 啄木の短歌を思い出しません?きっと、太宰がこれを原稿用紙に書いた時、彼は同じ北東北の先輩<天才>のことを意識していたと思うんです。二人とも今や日本文学史上の、確かに天才、そして同時に火宅の人、一部ではその素行の悪さから人間的クズとも言われていますよね。」

俺は「凛さん、you're beating around the bush(なかなか本題に入らない)ですね」と言いたくなってきていたが、そんなことを言える立場では<まだ>ないと自覚もしていたから、黙って聴いていた。

「二人は直接の交流など、22という歳の差もあり、啄木は26で亡くなっていますから、一切なかったのですけれど、間接的つながりはありました。太宰は啄木を『大天才』と『ヴィヨンの妻』で書いていますし、文学者として、同じ陸奥の人間としての共感はあったに違いないと思うんです。」

「陸奥(むつ)!・・・ええ。」

「その詩篇ですけれどー
『I look up to the mountains.』の後には、does my help come from there? My help comes from the Lord, who made heaven and earth!
He will not let you stumble: the one who watches over you will not slumberって。
そしてさらに後に、
The Lord keeps you all harm and watches over your life. The Lord keeps watch over you as you come and go, both now and forever.と。」

凛の美しいBritish accentが、Queen's Englishが、成城の丘で反響しているかのように俺には聞こえた。まさに神々しい響きだった。

「その『山』って、啄木なら故郷の山ですから、岩手山や八幡平、早池峰山とかですよね。」

俺は成城の丘を見つつ、その山々を見た記憶から清々しい気分になって、快活明朗に言った。

「太宰だと、その時は三鷹在住だし、西の奥多摩や秩父の山々かなあ。それとも山梨や静岡で憧憬と共に眺めた富士山かな。まあ、三鷹でだって富士は今でも条件がいいところなら見えるだろうし、当時ならしっかり丹沢山脈の北端を覗く富士が見えたでしょうね。いや、やはり啄木と同じで、太宰の場合は岩木山かな。なにしろー」

俺は一旦そこで話をやめて、残っていた冷たいコーヒーを飲み干した。

「凛さんはキリスト者なんですか。」

「Used to be、かしら。」

凛は応えた。

「父の影響で、聖公会でしてね。教名つまり洗礼名があって、私はHannah。
ハナ・リン・フジワラなんですよ、もうそう呼ぶ人はいないけれど。」

「ハナ・リンか。いい響きですね。」

「私が前回ここで話し込んだ相手はねー」

凛がいきなり、そしてようやく、俺のもう10分前くらいの質問に答えようとする。

「藝術至上主義者の、私の夫だった人よ。」

俺は、「あー!」とだけ言い、腑に落ちるところがあって頷きながら腕を組んだ。


(つづく)



nice!(0)  コメント(0)