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畢竟して何の用ぞ

人がいい気になっているのを見ると、まあ、やはり気分が悪くなるもんだ。

某企業の常務執行役員が品性下劣な発言をして馘になった。
某大学の受講料の高い社会人講座に講師としてトップバッター起用されて、
いい気になっていたに違いないのだ。
なにしろ「一流企業」の比較的若い常務様なのだし、
今の地位に就いたのは、己の優秀さの結果であって、それを自慢話方々披歴してやろう
などとすけべ根性を出したに相違ない。
そして己の品性下劣を調子に乗って、いい気になって、曝け出してしまった。

私だって例外じゃない、いい気になったことがある。
やはり若い頃にそういうことが顕著にあったと自覚する。
むろん企業のトップの方へ行ったなどという<優秀な事績>を成したわけではない。
某私立有名大学の講座講師に招かれたはずもない。

言っておくが、ガリアンの歌が売れたとかで天狗になったということはない。
何度も書いてきたが、それは重圧になりこそすれ、増長の種にはならなかった。

歳をとればとるほど、私は慎重になっていった。
その慎重さももちろん<当社比>のことではあるけれど。
やはり、読書が進み、どんどんと教養ある人間への憧れが増していったからだ。
本物の教養人はいい気になど絶対にならない。

この種の話を書いていると真っ先に思い出すのは、紀野一義先生の御本にあった
「畢竟して何の用ぞ」という『正法眼蔵随聞記』にある言葉だ。
簡単に言ってしまえば、「お前はギャアギャア言うけど、だから一体それがどうした」
と言うことだ。「So what?」だ。

三十代にこの言葉に出会って、私はシュンとした。
道元禅師にもし、私が信念持ってやっていることについて「畢竟して何の用ぞ」と
言われたとしたら、整然とは答えようがない。
賢治さんのように、「ほんたうのさいはひ」の追求のためですと言えたら凄い。

「畢竟してその『ほんたうのさいはひ』を追求する用は何ぞ。」

みなさんならどう答えますか。



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