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実験・新形態小説 『ハイドレインジャ』〜第2部その16

ハイドレインジャ
〜第2部その16

「親父さんのこのN町の中世史研究でおもしろいなっつぅ歴史的人物は何人もいるけど、特に岡半兵衛は興味深いね。」

俺が言うと、

「ああ、岡半兵衛重政な。蒲生氏の重臣だった」

と父は応えた。
俺は続ける。

「Wikipediaにも載っててさ、出自はいろいろ説があるけど、いずれもなかなかで、決して馬の骨ではないようだね。」

「そうか。俺はそこまでは自著で言及してながったな。」

「うん。日本史教師のH先生との対談では、有能な臣下、行政官であったことは認めつつも、専横的なところに批判的に語られるって印象だゾイ。」

「ああ。そうだったがらこそ、蒲生の2代目秀行の正室で、なんと徳川家康の娘・振姫の不興を買って、後には駿府に呼ばれ、家康に腹を切らされたわげだがらなあ。」

「みたいだね。んで、父ちゃんの著書には書かれていなかったことだけれど、その岡半兵衛、石田三成の次女を正室にしていて、その二人の息子岡吉右衛門には於振という娘が生まれ、この娘が三代将軍家光の側室になって、自証院となり、家光の長女千代姫・霊仙院を産んで、なんとまあ、今日、今上・徳仁さま(今日お誕生日、おめでとうございます!)までその血脈が続いてるってんだから驚いちまった。」

「ああ。そこまでのことは紙幅の関係上書けなかった。」

「そうなんだ。でさ、會津太守の初代・蒲生氏郷が亡くなって秀行が継ぐと、まもなくお家騒動となって、太閤秀吉の裁定で蒲生は會津92万石から宇都宮12万石、父ちゃんの記述だと18万石に減封されてしまうじゃない。」

「うん。」

「そのとき蒲生家譜代の臣下岡ないしは岡野の家の半兵衛も已むを得ず岳父石田三成が懇意にしていた上杉景勝の元へ行くんだよね。そしてその上杉が蒲生に代わり會津になんと120万石で入ったと。」

「そうそう。」

「ところが世は移り関ヶ原の戦いがあって、宇都宮にいた蒲生2代目・秀行は東軍、つまり家康側につき、その恩賞だろうけれど、會津に、父ちゃんによれば60万石で復帰できた。」

「そうだ。秀吉の家臣として出世した蒲生なのになあ、家康についた。」

「その関ヶ原んとき、秀行は岡半兵衛に今や家康の敵となった上杉にいないで、こっちへ戻ってこいって言ったらしい。すると、以下Wikiの記述だけれど、半兵衛は『「氏郷公や秀行公から受けた恩を忘れたことはないが、その後自分を拾ってくれた景勝公にも深い恩があるため、自分たちはそれを忘れて裏切ることはできない」という情理を尽くした返書を送り、秀行を感動させた』んだと。」

「うむ、そうだったかな。」

「この半兵衛の義の尊び方に惚れたんだね、ますます、二代・秀行は。そして半兵衛は『並びなき取り立て』を受け、『無双の出世』をするんだよね。お父ちゃんの著書での記述だと、『衆道関係でもあったのか』というくらいの依怙贔屓、寵愛だよね。」

「んだ。きっとそうだったんじゃねぇがな。」

「親父さんがもし紙幅が許し、さらにちょいともっと過激な推論をしようとしていたなら、その『衆道関係』、つまり戦国武将にまま(?)見られる<男色>に、秀行の妻で家康の三女・振姫が本当に怒り狂ったって書きたかったんじゃないの?」

「まあな。そうでもねぇど、振姫がわざわざもう駿府で隠居していた父家康に直訴して、<大御所>様が半兵衛を呼びつけ切腹申しつけるなんてごどまでにはなんねぇんねぇが(ならないのではないか)。」

「うん。納得だね。でもさ、Wikiではその辺りは一切書いてなくて、夫秀行が逝き、彼との息子忠郷が3代目になってからの振姫と半兵衛の対立についてはこう書いているんだ。

『やがて後見人の振姫と仕置奉行の重政は前年に起きた大地震後の施政で激しく対立する。信心深かった振姫は神社仏閣の復興を最優先に進めようとしたが、重政がこれに対し民衆の救済が先で神社仏閣の復興にすぐ予算は付けられないと拒否したためであった。』」

「それは誰の説だ。Wikiさんのが?」

「ああ、あの朝の英会話やってたウィッキーさん・・・って違うよ!
尾下成敏という京都橘大学教授の著書『蒲生氏と徳川政権』を参考にしているみたいだ。」

「ほう。大学教授のな。まあ、俺は一介の社会教育専門の地方公務員、公民館長、郷土史家でしかねがったがらな。」

「それは関係ないよ。」

「しかし、そっか、半兵衛は神社仏閣再建より民の救済を優先したって書いでんのが。ほう。」

そう言って父がゆらゆらと姿を現したが、その表情は暗かった。

「まあ、俺はもうこういう<あの世の者>んなっつまってっから、半兵衛の時代にも実は行ってんだワイ。半兵衛自身にも会おうどしたんだげんじょも、俺の著書のせいガ、直接言葉は交わせながったのよ。

どうだ、これがら振姫と半兵衛の対立の焦点になった、上野尻の西光寺さ行ってみだらなじょだ(行ってみたらどうだ)。」

「上野尻はN町と同じ行政区域に在る昔の越後街道沿い宿場町だ。」

俺は凛に言った。

「クルマで10分くらいかな。」

「そごは私の実家石川家の菩提寺だったお寺なんだシ。」

母が三十代くらいだった頃の面影を墓石に映しながら言った。きれいだ!

「近江出身の蒲生家と深い縁があったお寺なのナイ。」

「その深い縁がなにゆえのごどがが謎のままなんだワイ。」

父が付け加えた。

「父ちゃんの著書で、取材当時の西光寺住職・岩倉大禅さんのお話が出てくるけれど、蒲生氏郷が領内巡視で寺を訪れ休息したとしか書いてないね。なにゆえにその後深い縁ができたかは、<ご方丈様>も全く触れていなかった。」

俺がそう言うと、父が、

「そうだ。俺は時空を超えてある程度はつかんだげんじょも、今の世に生きるユウと凛さんで確かめでみっといいべゾ」

と言い、母が、

「ほんにほにほに(本当に本当に)、縁とは不思議だナイ、ユウよ」

と生前通りに涙脆く訴えるように言ったー
ただし涙は液体ではないようだったが。

「それじゃ、土産の安曇野の野菜のこともあるから、急ぐね。」

俺はそう言って、凛と野澤家の墓を去った。


(つづく)




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