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実験・新形態小説 『ハイドレインジャ』〜その26 第1部最終章

ハイドレインジャ
その26

結局その夜、俺は凛の家に泊まった。
俺は当代の大作家のように臆面なく「erao」のことを描写する気はない。

古代ギリシアでは4つの「愛」を区別したー
eraoは性愛、phileoは何かを好む愛、agapaoは敬愛、stergoは肉親や兄弟への愛と言っていい。俺の凛に対して湧き上がる愛はstergoを除いてすべてだと言える気がした・・・
と言いつつ、stergoも感じていたか?

俺は、朝凛が淹れてくれたコーヒーを飲みながら彼女が手入れする庭を眺めていて、はっきり凛に溺れているという自覚を持った。その庭には数株の紫陽花が今を盛りに咲いていた。

「私はこの地球の生態を守りたいって思っているわ、それもかなり強く。」

凛が俺の後ろに立って言った。

「Nigelの汎神論的な環境保護へのアプローチは間違っていない。もちろんこの科学技術一辺倒とも言える現代では、すべてのものに神性が、仏性が宿っているなんて言っても、カルト臭いとか、詩歌の世界でのことでしかないとか言われてほぼおしまいだけれど。」

俺も凛も窓脇のソファーに座った。

「ユウはブログでShirley MacLaineのこと書いていたわね。彼女の、80年代に全米を驚かせた著作『Out on a Limb』と『Dancing in the Light』にある<God Force>ー
彼女は、彼女のセミナーで『あなたを神とは思えない』って言ってきた参加者に、『If you don’t see me as God, that’s because you don’t see yourself as God』とキッパリ言ったって。NigelはそのShirleyの信奉者だった。彼女はIrish Americanで、馬が合ったのね。俺も神、君も神、木も花も、鳥も獣もみんな神。そしておいらはおいらが神なる宇宙を夢見ている神ー
And I'm God who's dreaming of a universe where I'm Godって。」

凛はスマートフォンで検索を始め、ページを見つけて、

「一方でね、太宰治は『渡り鳥』で、『近代音楽の堕落は、僕は、ベートーヴェンあたりからはじまっていると思うのです。音楽が人間の生活に向き合って対決を迫るとは、邪道だと思うんです。音楽の本質は、あくまでも生活の伴奏であるべきだと思うんです』って、楽聖に向かって一刀両断するの。Mozartを称揚する一方でね。」

「えぇ?」

俺は怪訝の声を上げた。

「小説の登場人物に言わせたとしても、太宰さんの考えだね、きっと。一体どのBeethovenの作品について言っているのか判然としないけれど。音楽が生活に向き合って対決するのは邪道とは!生活の伴奏であるべきだとは、音楽は生活する主体に干渉するなってことか?あくまで生活者=ソリストの演奏あっての彩りってことか?しかし、そのソリストが奏でているのは音楽じゃないのか!

まあ、何も小説の中の1セリフにギャアギャア言ったってしかたがないけど。それでもまた三鷹に行って、次元貫入部にお出まし願いたいな。<どういふ意味ですか>と訊きたいぜ。」

「それは措いておいてー」

と凛が言った。

「ユウは昔Nobody wants to hear singers lectureって歌詞の歌、作ったでしょ。誰も歌うたいが講義するのなんか聴きたくはない、って。」

「う。そんなこともブログに書いた?しかもそんなところまでHannah Lynnは読んだ!」

「ユウも、Nigelも、そして私も、<人間の生活に向き合って対決を迫る>音楽を目指したし、目指しているじゃない?全てが全てではないにしろ。ユウのWhen There's No-One Left to Hearという反戦反核の歌とか。それが聴かれない、邪道だと言われてしまう向きは確実にあるのよ。その痛みを私はNigelと分かち合ったと思うの。」

俺はソファーの右側にいる凛を抱き寄せた。

「分かったよ。ありがとう。君とNigelの関係性はもう十分に分かった。」

俺は彼女にキスをして、

「これからは、僕らの音楽だ」

と囁いた。

「一緒に<汎神論的pro環境保護音楽>を追求しよう、Hannah Lynn。」

凛はうっとりとした表情を俺に見せて、再び俺の唇を求めた。



ハイドレインジャ第1部 完


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