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実験・新形態小説 『ハイドレインジャ』〜その13

ハイドレインジャ
その13

「そんなこと、言いましたっけ。」

俺は少し面食らっていた。
凛の右手も俺の太腿からすでに<撤退していた>。

「ミュージシャンて、時折、全能感みたいものを覚えるんでしょうか。」

凛がうつろな目をしながら呟いた。

「僕はそんなことを感じられるほどのミュージシャンではないですよ。」

俺はキッパリ言った。

「でもね、自分が好きな場所の空気感を表現できているときにはecstasyを感じるときがあります。その場所と僕が一体になれたような、あるいは一部になれたような感覚です。それはむろん自己満足です。『なれた』なんて言ったって、それを認めるのは自分だけですからね。なにしろ全能感などを覚えられるほどのミュージシャンでは到底ないです。」

I Love You Tooとかのことかしら。」

俺は度肝を抜かれた。唖然呆然だった。なぜ凛が俺の内々にしか聴かせていない歌を知っているのか。

「私、本当に驚いたんですー」

凛が続けた。俺は「こっちこそだよ!」と言いたかった。

「いつだったかしら・・・私の故郷、つまり成城のことをネットで調べていたときに、ユウさんのサイトに偶々たどり着いてー 成城、狛江、野川というwordsでヒットしたんですね。ブログには音楽ファイルが載っていたのでクリックしたんです。」

俺は「そうか」とは思いながらも、まだまだ驚愕という体だった。

「アコースティック感が強い曲で、しかしNigelとは真逆な音楽性なのは、同じアコースティック・ギター・メインの曲だったからこそ強調されて私には響いて。」

うつろだった凛の目の焦点は今や相対する成城の丘にしっかり合っているようだった。

「ああ、この人は本当に野川が、<あの>丘が好きなんだわって伝わってきたんです。そしてその野川も、成城の丘も、この人の愛の告白に『I love you too』って応じている、言い交わしているって思ったんです。」

俺はあまりに感激していて一言も発し得なかった。今度はこっちが嗚咽する番だと思っていた。

「そしてねー」

凛がさらに続けた。

「ユウさんが夏には早朝ウォーキングに出ることをブログを読んでいて知って、いつか出くわすかもって思ったんです。」

「え?・・・まさか。」

俺はそこで言葉を呑んだ。

ーまさか、凛は俺と出くわすことを密かに期待しながらジョギングしていたのか?あの出会いは全くの偶然ではなかったのか?

「そして一週間くらい前、とうとう仙川沿いでユウさんかもっていう男性を認めて、もう私、俄かに興奮し始めて・・・その男性がEvil Womanのストリングス・メロを口笛で吹いたとき、私は確信したんですけど、もちろん『あなたはユウさんでしょう』と訊くことはしませんでした。」

「その口笛、かすれて、高音が出なくて・・・。」

俺はポツリと言った。
凛が笑う。

「そうだったんですか。そうだったんですね。」

俺は心底この凛の話に畏れ入っていた。何かがあるとしか思えない、何かに導かれているんじゃないかという思いでいっぱいだった。

「私、誇らしかったんですよー」

凛の声の調子が一段上がった。

「私のふるさとの歌が、曲があるんだって。私も愛する野川のせせらぎ、国分寺崖線上からの風の音、鳥や虫の声がはっきり聞こえてきました。ユウさんは會津のご出身ですけれど、會津への愛着ももちろんおありだけれど、劣らずに野川、多摩川、仙川、つまりは世田谷の砧地域、狛江、調布を愛していらっしゃるのがうれしくて!」

今度こそは、俺が嗚咽し始めた。
歌うたいとしてこんなに栄誉なことがあるだろうか。

すると今度は凛が俺を右腕で抱き寄せてくれた。
そして俺は右手を凛の右の太腿に置いた。

But when you do a charitable deed, do not let your left hand know what your right hand is doing. (Matthew 6-3)

(つづく)



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