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実験・新形態小説 『ハイドレインジャ』〜その8

ハイドレインジャ
その8

待ちに待った土曜日は、天気予報通り梅雨の中休み、驚くほどの「ピーカン照り」となった。

晴れたのはいいが、昨今の日本、そして東京では、六月でも耐えられぬほどの暑さになるのは必定だった。昨日まで予報が外れたりしたら雨宿りをどうするかと心配していたが、今や強烈な日差しから二人を守るshelterをどこに求めるのかが大きな問題だと俺には思えた。ふれあい広場には藤棚を屋根にしたベンチが置いてはあるが、壁は全くないから長くいたら悲惨なことになってしまう。また、<先客>がいたら、途方に暮れるしかない。

「そうか、その時はその広場脇の野川に沿った緑道にある木陰のベンチがある!」

いいことを思いついたと喜んだが、すぐにその場所の難点を思い出したー
蚊がいるのである。

なぜ俺はそのことを知っているか。もちろん、その世田谷区喜多見にある区立公園に隣接する狛江の東野川というところに長く住んでいたのだから、それぐらいの知識経験があって当然と言えば当然だが、その木陰のベンチにそれなり長く座らねば知ることもまずない<蚊禍>である。そう、もう相当昔のこと、俺はある女性とそのベンチに長く座っていたことがあったのだ。

俺は防虫スプレーをポシェットに入れた。

*

前夜確認し合った待ち合わせ時刻午後0時ちょうど、俺はふれあい広場の階段下に着いた。
すると、

「ユウ(熊)さん、Bärさん!」

と凛が階段の踊り場のところの手摺から顔を出して俺を呼ぶのだった。

「ああ、凛さん!」

俺は一瞬、Romeoの気分とはこういうものではないか、と思った。一日千秋、なんだか泣けてくるような恋しさだった。

「おいおい、六十男がいったいどういう了見だ」ー
俺はすぐにそう自省して、凛には過度に映るであろう我が感激の表情をフラットにする。
踊り場で互いに日本人らしい挨拶を交わして、天気のことなどを話しつつ広場に入る。入ってすぐ左手の、例の藤棚が屋根になっているベンチを見るとバスケットが置いてあり、俺は、

「もしかして、席取りの目印にしたの?」

と訊いた。

「盗られちゃったかもしれないじゃないですか。」

俺が笑いながらそう言うと、凛は、

「見て」

とバスケットの中を俺に覗かせた。内容物の上に紙が置かれていて、そこには

「どくいり きけん たべたら しぬで」

と太めのサインペンか何かで書かれていた。

俺は絶倒しそうになった。
腹を抱えて笑うべきこのユーモアではあるが、踊り場で俺を待っていたこと、俺に声をかけたときの眩しいとしか言いようのない笑顔ー
この連続した愉悦の後、こんな無邪気なことをする凛の愛らしさを目の当たりにして、俺はまだ束の間二回しか会っていないこの女性の<奥深さ>、測り知れない人間性、女性性を思い知った気がして、笑うどころか溜息が出るのだった。

凛はその俺の態度に怪訝そうな眼差しを向けて、

「ユウさん?」

とだけ言った。

俺はハッとして、咄嗟に両目を吊り上げて、

「キツネ目のおとこ〜!」

と戯けて、

「そうしてキツネは、ええ子はこんな悪戯してはいかんがな、とコンコンと説教する!」

そんなくだらないことを言ったのだが、凛は大笑いして、

「うまい!」

と本当に感心しているという表情で言って、ハハハッと笑った。
俺はなんだか恥ずかしくなって、

「今はフジの葉陰にはなっているけれど、もうすぐ日光が直射しますよ」

と真面目そうに指摘して、そうなったら広場の下に降りて、午後から日没まで完全に日陰になる野川脇のベンチへ行きませんかと言った。
すると凛は、

「ええ。でも、あそこは長時間いると絶対に蚊に刺されちゃうんですよね」

と言うのだった。


(つづく)



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