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実験・新形態小説 『ハイドレインジャ』〜第2部その22

ハイドレインジャ
〜第2部その22

如法寺は807年(大同2年)徳一によって創建されたという。徳一は藤原仲麻呂=恵美押勝の末っ子とされているが、定かではないらしい。けれども、最澄と論争し合い、空海にも一目置かれた法相宗の僧が、出自不明というのも不思議であって、やはり高貴な生まれだったのは疑いない。

徳一は會津に慧日寺や如法寺、勝常寺、円蔵寺などを創建し、仏都會津とも呼ばれるほどの信仰と仏教文化を広めた。前年の大同元年(806年)には會津磐梯山が噴火している。そのことも徳一が會津を根拠にした理由の一つだろうか。

時代は奈良時代が終わり、聖武天皇の治世であり、彼は坂上田村麻呂を東北へ派遣し、アテルイなどが率いる「蝦夷」を何度も攻撃した。會津ばかりでなく東北の寺社は大同2年創建とされるものが多く、また京都(みやこ)でも田村麻呂が清水寺を建立したのは大同2年だ。よほど多くの蝦夷を殺し、また部下を死なせた罪を贖いたかったか。

寺社建立は征服地において、戦で散った者たちの魂を鎮める意味はもちろん覇者=中央政府の権威の象徴でもあったろう。


俺は幼稚園の頃、初めて如法寺を遠足で訪れた。幼稚園児にはなかなかつらい登坂がある。それでも頑張って登った。記念写真がある。以降、幼なじみたちと何度も足を運んだ。寺前の茶屋で出される心太がすさまじく美味であった。

父はN町の文化財調査や保存にも社会教育専門の公務員として力を尽くした。ゆえに如法寺住職とも馴染みで、またもしかするとその住職さんよりも寺の歴史には詳しいくらいだった。

父によると、如法寺は1611年(慶長16年)の會津地震で甚大な被害を受けたのだが、俺と凛が行ったばかりの熊野神社共々、岡半兵衛がすぐに再建に乗り出したと言うのだ。柳津の円蔵寺虚空蔵堂再建が6年かかったところで、如法寺「観音堂(執金剛堂だったという説あり)」はたった2年だった。

これは不思議なことだ。と言うのも、前に書いたとおり、蒲生家二代の秀行の妻で家康の三女振姫(正清院)こそこの大地震による寺社仏閣の早期再建を主張し、いいや民生こそ先に再建だとした半兵衛と対立したと言う説があるからだ。実際、今は喜多方市内となっている慶徳地区や岩月地区が、地震により堰き止められた河川が溢れ、湖のようになって、甚大な被害を受けたのだが、その救済と河川や道路改修に半兵衛は尽力した。特にその道路改修では越後街道が再びの災害に襲われぬよう喜多方の岩月地区から高寺までが廃止、代わりに會津坂下を通るルートへと移された。そのおかげで坂下は會津若松に最も近い宿駅となり、繁栄した。今でも越後街道=国道49号線は會津若松から西進すると會津坂下を通る。喜多方は「2桁国道」から外れたままなのだ(會津若松から喜多方へは121号線でつながる)。

なお、この喜多方慶徳地区には磐越西線が通るが、その阿賀野川水系濁川に架かる鉄橋が台風被害で2022年崩落してしまった。この川は會津盆地に普段は恵みをもたすが、時に牙を剥く。大昔からそうなのだ。

話が逸れたが、岡半兵衛がなぜN町の如法寺と熊野神社修理再建だけは急いだのか。


起床して朝食という段で、佐竹さんは俺と凛をニヤニヤ笑いながら見つめて、昨夜は艶かしい音が聞こえてこっちはなかなか眠れなかったと言った。俺は自分が年寄りになったことを時々忘れる。そしてそれを思い出させられるとただただ恥じ入るのだ。<あっちの話>であれば尚更で、俺は消え入りそうになった。

「いいんでねぇの、野澤さん。」

佐竹さんは快活に言った。

「羨ましいワイ。オラはもう80過ぎただ。まるっきしダメだ、そっちは。」

凛も赤面して、縮こまっている。

「若い嫁さまもらって、まあ、羨望の的だワイ。」

「若くなんてありませんから。」

凛が恥ずかしそうに反論する。

「奥さんは東京の人ガイ?」

「はい。」

「東京のどゴ?」

「世田谷区です。」

「世田谷?世田谷のどゴ。」

「成城です。」

「あらッ!有名人がいっぺ住んでるどゴだべした。いやいや、どうも!」

佐竹さんは俺たちの前におかずが10もある朝食の膳を置いて、

「お二人は、なんだい、結婚の報告でこっちに来らったのガイ」

と言った。

「ええ、まあ、それもありつつ。」

俺は答える。

「野澤さんの墓所は常楽寺だべした。」

「はい。」

「んじゃここ如法寺には?」

「この寺の檀家ではないですけれど、N町民にとってはこのお寺は檀家かそうでないかは関係なく、町全体の鎮護をしてくださるお寺ですからね、来ないわけにはいかないですよ。」

「そうだナイ。」

佐竹さんは鉢巻を取って、隣のテーブルに座り、自分にもお茶を注いで飲み始めた。

「野澤さんの亡くなったお父上ナイ、まあ、よ〜ぐこゴさ来らったもんだ。調査でナイ。本堂の天井裏に執金剛神(しゅこんごうじん)像を見っけだの、野澤さんのおとっつぁまでねガったっけ?」

「ああ。それを見つけたときの調査にはいたみたいですが、発見したのは確か福島県の調査員だった大学の先生だったんじゃなかったでしたっけ。」

「あ、そうガイ。あんな尊い仏像を天井裏に匿すようにしてだってぇのは不思議な話だナイってお父上と立ち話したもんだ。」

「そうですか。」

「聞ぐどゴろ、岡<野>半兵衛が大いにその仁王様(=執金剛神)敬ったつぅゴどだったナイ。」

「ああ、岡半兵衛ないしは岡野半兵衛ですね。」

「そうそう。會津地震の2年後如法寺修復再建のどぎ、『大檀那』どして岡野半兵衛が『慶長棟札』に名を残してんぞナイ。」

「お詳しいですね。」

「いやさ、このお寺様のおガげで食わひ(=せ)でもらってっからナイ。それなりお寺のゴどは知っていねぇどナイ。」

「なるほど。」

俺もその日の難を防ぐという朝の茶を啜った。

「実はその岡野半兵衛のことをより知りたくて来たんです。」

「ほお。そうガい。」

佐竹さんは腕を組んで、興味津々といった態度を見せた。


(つづく)




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