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朝からアホリズム

おかげさまで、Twitterでこのブログを紹介したことによりアクセス数も
visitor数も2分の3倍ほどに伸びている(と思う)。

昨日、読まれた過去の記事(膨大である!)を私も久しぶりに振り返ってみた。
こんなにも色々と大量に書いてきたからこその目の病気だったかな、
とまずはそのことを思った。

2006年10月にこのブログを始めたから、12年が経とうとしている。
干支が戻ってきたということー それはまあ、すごい年月だ。

今年だけでも、KK君、YE君、Gママという3人の知り合いが亡くなった。
特にGママについては、訃報に接してから彼女が残したブログも読ませていただいて、
複雑な想いが去来した。

私も、別になんらの不思議もないことだが、この世を去れば、
この膨大な己の書き物を遺していくことになる。
Gママにとっての私のような存在が、今度は私の「遺物」に触れるのである。

それがどうした、ということだ。
その読み手に例えば「いいこと書いているなあ」という感興があったとして、
それがどうしたのだろう。

いや、厭世的なこと、皮肉な想いを書きたいのではない。
まるで逆だ。
「それがどうした」と問われれば、「とうとい」と言いたいのだ。

先頃桜桃忌周辺で太宰治のドキュメントをふたつくらい見たけれど、
大作家の彼の作品は永遠だというような語りの部分で私は考えた。
大作家でなくたって、市井の一凡人の書き物であっても、
どなたかよそ様に感興を与えられたなら、それは「永遠」ではないのかと。
感興を与えられた人数の問題ではない。

「永遠」などという言葉はそう易易と使ってはならない。
宇宙すら終焉するのに、盤石の安定世界、永遠世界を想定するのは愚かかもしれない。

しかし、永遠は確かにある。
最近発見したのだが、過去の確定的事実として「Xは永遠にyする機会を失った」と
いうとき、それは真である。Xという主体によるyという行為は永遠に起こらないのだ。
そしてこのように否定的な永遠があるなら、肯定的な永遠もあるのではないかと。

何を朝っぱらから書いているのかと思われそうだ。
その「肯定的な永遠」、つまりは例えばあるXが与えた感興yが永遠であったとして
(このときその感興yがだれのどこに残るのかという問題はさて置く)も
だからどうしたと問われれば、やはり、「とうとい」と言うしかないだろう。

万物の肯定的感興が集積していくのが結局宇宙存在の理由であったなら、
そしてその宇宙も「永劫の回帰」をしたら、「Ja!」ではないか。




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