SSブログ

実験・新形態小説 『ハイドレインジャ』〜その19

ハイドレインジャ
その19

「俺もその鋲の礫、受け続けてきたなあ。」

俺は言った。

「今だって、自分が歌であれ、文章であれ、自己表現するとき、さすがにこの歳になると他者の批評をもらう機会はほとんどなくなったけど、その代わり自分で自分にその鋲の礫をぶつけるよ。」

「ええ、よく分かります。」

凛が何度も頷く。

「ユウさんはもうほとんど他者の批評は要らないところまで来たんですよ。」

「大成した、もう極めた、とかでは全然ないけれどね。」

俺は頭を掻きつつ言った。

「自分の表現について大体のところ自己批評できるようになっているよね。」

「ええ。そうでしょうね。」

凛が諾なった。

「それでね、その『風の便り』の文庫本がバッグの中にあることに気づいて、そういうことかと思い、そのDTに私、思い切って尋ねたんです、『あなたは太宰治さんですか』って。」

「うんうん。」

「DTは、そう、そのときは、微かに見えたのだけれど、弘前高校時代の写真の顔になって、『まあ、それはいいから』って。『君は創作、表現活動に行き詰まっているんじゃないのかい』って言うんです。」

「ほうほう。」

「そうしたら、『君は恋をしているかね』って。」

「出た!していないなら、俺がその対象になってやってもいいぞ、とか言った?」

凛はハハッと笑った。

「私、太宰さんは『風の便り』で『文学とは、恋愛を書く事ではないのかしら』と木戸一郎に言わせていますね、って返したんです。」

「うんうん!」

「そしたらDTが『それはそうでしょう』って。『あなたの表現活動の源は他者を求める欲情でないと言い切れますか』って。」

「なんて返事をしたの?」

「言い切れません、って言ったわ。その通りだとかなり痛烈に思い始めています、って。DTは、今度は、またも幽かではあったのですけど、銀座で飲んでいる時に撮られた写真の顔になって、ニンマリと笑って。『その、君に求められている男性が羨ましいね』と言ったんです。」

「ち。」

「私は少し憤然と『風の便り』の文庫本を取り出し、街灯の下に立ち、太宰さんのすばらしさは、先輩作家・井原退蔵にこの言葉を言わせたところにあると私は思っていますと言って、この部分を読み上げたんです。

『君は、愛情のわからぬ人だね。いつでも何か、とくをしようとしていらいらしている、そんな神経はたまらない。人に手紙を出すのも、旅行するのも、聖書を読むのも、女と遊ぶのも、井原と冗談を言い合うのも、みんな君の仕事に直接、役立つようにじたばた工夫しているのだから、かなわない。そんなに「傑作」が書きたいのかね。傑作を書いて、ちょっと聖人づらをしたいのだろう。馬鹿野郎。』」

「おお!すばらしい言葉だ!」

「『自分は君に、「作家は仕事をしなければならぬ。」と再三、忠告した筈でありました。それは決して、一篇の傑作を書け、という意味ではなかったのです。それさえ一つ書いたら死んでもいいなんて、そんな傑作は、あるもんじゃない。作家は、歩くように、いつでも仕事をしていなければならぬという事を私は言ったつもりです。生活と同じ速度で、呼吸と同じ調子で、絶えず歩いていなければならぬ。どこまで行ったら一休み出来るとか、これを一つ書いたら、当分、威張って怠けていてもいいとか、そんな事は、学校の試験勉強みたいで、ふざけた話だ。なめている。肩書や資格を取るために、作品を書いているのでもないでしょう。生きているのと同じ速度で、あせらず怠らず、絶えず仕事をすすめていなければならぬ。駄作だの傑作だの凡作だのというのは、後の人が各々の好みできめる事です。作家が後もどりして、その評定に参加している図は、奇妙なものです。作家は、平気で歩いて居ればいいのです。五十年、六十年、死ぬるまで歩いていなければならぬ。「傑作」を、せめて一つと、りきんでいるのは、あれは逃げ仕度をしている人です。それを書いて、休みたい。自殺する作家には、この傑作意識の犠牲者が多いようです。』」

「おおお、おおお!」

俺はこの時点で太宰治という作家をひとつも理解していなかったんじゃないかと強く自覚した。自覚ない自意識過剰者ほど手に負えない者はいない。太宰は、自意識過剰、自己愛過剰だったには違いないが、そのことを同時に冷徹に見つめ、自覚していたのだ。

「そしたらー」

と凛が続けた。

「DTは咽び泣きを始めたんです。ああ、俺の妻も、恋人も、その部分を書けたあなただから愛しますって言ってくれたんだよ、って言いながら。」

俺は目を瞑り、心を震わせていた。

「私とDTはずっと玉川上水を遡って歩いていたんです。DTが忽然と姿を消したのは、『玉鹿石』のところ、つまり太宰と山崎富榮が入水したところでした。」


(つづく)




nice!(0)  コメント(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:[必須]
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。