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実験・新形態小説 『ハイドレインジャ』〜その10

ハイドレインジャ
その10

サンドイッチを食べ尽くす頃には、二人は異常な蒸し暑さに耐えきれなくなっていた。俺は防虫スプレーを凛に見せて、「下に行きましょうか、例のベンチへ」と言った。凛は俺の用意周到さに感心したと言って、にっこり頷き、腰を上げた。

そのベンチからは、主に成城4丁目の、国分寺崖線の高台に建つ豪邸群が野川を挟んで正面に見える。
二杯目のコーヒーを飲みながらその成城の丘を見ていると、早速蚊の気配がした。

「来ましたか、蚊?」

俺は凛に訊いた。

「ええ、でもスプレーが効いてますわ。」

凛はそう返事して、それでも左脚の脛の辺りを軽く叩いた。

「いずれにせよ、ここに長居は無用かもしれませんね。」

俺はそう言い、頃合いだと思った。

「凛さん、こんな大きな問題についてあなたのご意見を伺うタイミングでも、私とあなたの関係性でもないと自覚していますがー」

俺はそこまで言ってコーヒーを少し多めに啜った。

「あの豪邸群。」

俺は視線で凛にその方向を示した。

「黒澤明監督の『天国と地獄〜(英題 High and Low)』は欧米でも高く評価されている映画なのですけれど、山崎努さんが演じた誘拐犯は、丘の上の高級住宅をその下の貧民街からずっと見上げてきた貧しい研修医なんです。」

「ええ、観たことがあります。」

凛もコーヒーを少し多めに口に含んだ。

「私のアメリカの友人たちにも熱狂的なKurosawaファンがいて、中でもfilmmakingを専攻していた友人にとってはほとんどAkira Kurosawaは神でした。私が東京ではToho Studiosの近くに住んでいると言ったとき、彼に随分羨望されました。」

俺は「それはそうでしょうね」と言い、いよいよ本題に入る。

「実は僕、John Lennonの、『Imagine no possessions』という歌詞にずっと拘ってきましてね。そのこだわり、あるいは<わだかまり>は、まるでその研修医の、丘の大邸宅を見る時の気持ちに近いんじゃないかって。大邸宅に住む世界でも指折りの大富豪が、妻のYokoさんもLennon家の資産運用で忙しいなんていう中、どうしてあんなことが歌えたんだろうって。もちろん言行不一致なんて人間には当たり前のことでしょう。John & Yokoが聖人君子であるはずもない。しかしそのhypocricyをJohnを殺害した犯人は赦せなかったと言っています。Johnに傾倒し、神格化さえしていたからこそ、赦せなかったんじゃないか。僕はもちろん犯人を赦せない。勝手に神格化なんかしやがって、と思う。けれど、Gimme Some Truthって歌った本人が、財産なんてない、貪りなどない世界を想像してごらん、私は夢想家と言われるかもしれないが、独りじゃない、なんて歌ったんですから、僕は少年としてリアルタイムで聴いたけれど、これが本気なら、Johnは神になったと思いましたよ、実際。」

「Johnは『I wonder if WE can』ってライブで歌っていますよね。レコードではyouのところで、weと」

と凛が言った。

「そこにJohnの照れ、あるいは自嘲がありますよね。『you』とスタジオで歌った彼は本当にその時はholyな存在になっていていたんじゃないかしら。そして日常の自分のだらしなさの自覚から、生で人前で歌うときには『we』と歌わざるを得なかった。そういうJohnが私にはむしろ好ましい、あるいは愛おしいんですけどね。」

「凛さん、あなたも豪邸に住んでいらっしゃいますよね、成城2丁目だしー」

俺は愛を告白するのと同様の勇気を振り絞って言った。

「富裕な人は、この経済格差が極端になった、あるいはなりつつあるこの今の社会、世の中で、どうそのことを認識して行動すべきなんでしょうね。」

「それが日々、私に課せられた命題なんです。」

凛はキッパリと返答した。

「私は太宰治に似ているって思います。」

「太宰?」

「太宰は大地主の実家の援助を相当長くもらい続けましたよね。小説家としてなんとか売れ出すまで、当主の長兄に嘘をつき続けて。しかもその後も自堕落と批判されるような生活態度ゆえ他者からの借金は多かったみたいです。私は嘘はつきませんでしたけれど、実家の財産を元手に夢を追った点では太宰と変わりません。自堕落も、正直、ありました。」

俺は固唾を呑んだ。
凛は続けたー

「太宰は帝大生時代、共産主義運動にも関わりました。ブルジョアの息子・娘が、その幸運な<親ガチャ>に引け目を感じるって、よくあるパターンじゃないかしら。Johnは親ガチャでは散々だったかもしれませんけど、Paul、George、Ringoという天才たちと同じLiverpoolで真の意味で奇跡的に出会って、おそらく音楽史上至高の幸運に恵まれたけれど、バンドから去ったとき、ビートルズ時代の自分を『I was a warlus』、そして『Now I'm John』と歌って、それからまもなくIMAGINEを作り、歌うんですね。<No possessions>の世界を想像する自分になっていたんです。」

「ええ。」

俺は太宰とJohn Lennonが並列に語られているという事実の新鮮さに興奮して聴いていた。

「それでもー」

そう言って、凛はコーヒーを飲み干した。

「自分の思いと行いが一致しない、辻褄が合わないというもどかしさを持たない人ってきっといないと思うんです。太宰もJohnも、もどかしさを常に抱えた日々だったんじゃないかしら。私も毎日、自分はロクでもない人間だなって思っています。」

「ぼ、僕もですよ!」

俺は慌てながら即座に同意した。

「私ね、一人っ子なんですよ。」

凛が長く暗かった表情を、パッと、まるで電灯が点ったかのように明るくさせて言った。

「私、子どももいないし、私がこの世を去ったら、全財産を寄付するつもりなんです。それで私のもどかしい想いが晴れるわけではないですし、経済格差という大問題への解答にもなっていないのですけれど。」

俺は心打たれていた。
やはり凛は<立派な>人物だったとしみじみ思った。

その感動が続いているのに、俺はまた勇気を振り絞って<次の質問>をしたー
しなければ済まないという気持ちが抑えられなかった。

「凛さん、このベンチで以前、長く話し込んだ人は誰ですか。」


(つづく)



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