実験・新形態小説 『ハイドレインジャ』〜その5
ハイドレインジャ
その5
「ああ、凛さん!おはようございます!」
彼女はいわゆる「シャワーラン」の格好で、雨をひとつも苦にしていない様子だ。
「すごいですね、雨ん中でもいつも通りで。」
俺がそう言うと、足踏みしながら凛はにっこりと笑って、
「ずぶ濡れです。でも雨の日のjoggingはそれなりの楽しみがありましてね」
と言った。
「紫色の花々が輝くでしょう、雨の日って。」
「輝く・・・。」
「ええ、特にこの季節は紫陽花。紫陽花って本当に色も形も千差万別で、私しょっちゅう引っかかってしまうんですよ。足踏みしながら花を見て。まるでホバリングしているハチドリみたいに。」
なるほど、いい比喩だと俺は思いながら、
「砧公園内の世田谷美術館周辺に今すばらしい紫陽花が咲いていますよね」
と言うと、凛は、
「そうですか。どんな紫陽花?」
「白いの、ちょっとピンクの、それからしっかり赤紫の花のpomponが同じ株から咲いているんですよ。」
「まあ!じゃあ、探してみようかな。」
俺は、その凛の無邪気とも言える表情や声の調子に、なんだかたまらず不躾で大胆になった。
「あ、あの、凛さん、もしよかったらいつかお話しする機会は持てませんか。」
なんと驚くべきことに、凛は全く動揺する素振りも見せず、
「いいですね!」
と顔をキラキラさせて返事をするのだった。
「あ、あのー」
俺は大胆、不躾な態度から一変気弱な少年のようになって二の句を繋いだ。
「実は、凛さんにお聞きしたいことがあって。お互いのジョギングやウォーキングの途中で話すようなことでもなくて。」
凛は幼稚園の保母さんのようにやさしい笑みを浮かべて、
「私、時間がありますから大丈夫ですよ」
と応えた。
俺は焦燥感たっぷりに早口で捲し立てるー
「僕のこと、どこの馬の骨か分からないでしょうけれど、とりあえず砧8丁目に住むミュージシャン、しかももう還暦を過ぎていて、何かギラギラした出世欲を持って音楽をやるなんていうフェイズはとっくに過ぎていて。今は砧を僕の終の住処として、歌うたいの最終盤に総決算て言うかー
言葉が貧困だな、ええと、集大成・・・そんな大したもんじゃないかー」
凛はクスクス笑っている。
「なにしろデビューしてから40年、今の境地を歌にして、いつあの世から呼ばれてもいいようにって、そんな感じでししてね。なお、今は独りです。」
そう言って俺は「しまった」と思った。「最後のはないわ。今言うようなことじゃない。そんなことを言うこと自体が嫌らしい」と感じ、顔が熱くなった。
俺は気を取り直して、
「ミュージシャンなんて大概はだらしない生き方をしてしまうし、僕も例外ではないんですけれど。でもだからこそ自分の人生を見つめる機会は多かったんです。その、自己の行いを見つめてアウトプットされるものが歌でして。そして結局思うんですが、私の歌とは一貫してAll you need is love精神の発露なんだと。」
凛は足踏みをやめていた。
「そのloveって、動詞なんですよね。」
凛は呟くように言い、俺は衝撃を受け、心の中で、
「え?名詞だと思ってたし、そう取ってもおかしくはないけれど、動詞?そうか、All I've got to do is call you on the phoneのcallと同じことか!」
と凛の言葉を反芻し始めていた。
「Nothing you can sing that can't be sungー」
凛は「can't」を美しいイギリス英語の響きで発音してJohnの詩を誦じた。
「歌えるもので歌い得ないものは何もない、ですよね。その前の歌詞は『することができてされ得ないものは何もない』。だから、『<愛し>さえすればいい』なんですね。」
俺はしばらく呆然として立ち尽くしていた。
そして徐に傘の下に凛を入れた。
(つづく)
その5
「ああ、凛さん!おはようございます!」
彼女はいわゆる「シャワーラン」の格好で、雨をひとつも苦にしていない様子だ。
「すごいですね、雨ん中でもいつも通りで。」
俺がそう言うと、足踏みしながら凛はにっこりと笑って、
「ずぶ濡れです。でも雨の日のjoggingはそれなりの楽しみがありましてね」
と言った。
「紫色の花々が輝くでしょう、雨の日って。」
「輝く・・・。」
「ええ、特にこの季節は紫陽花。紫陽花って本当に色も形も千差万別で、私しょっちゅう引っかかってしまうんですよ。足踏みしながら花を見て。まるでホバリングしているハチドリみたいに。」
なるほど、いい比喩だと俺は思いながら、
「砧公園内の世田谷美術館周辺に今すばらしい紫陽花が咲いていますよね」
と言うと、凛は、
「そうですか。どんな紫陽花?」
「白いの、ちょっとピンクの、それからしっかり赤紫の花のpomponが同じ株から咲いているんですよ。」
「まあ!じゃあ、探してみようかな。」
俺は、その凛の無邪気とも言える表情や声の調子に、なんだかたまらず不躾で大胆になった。
「あ、あの、凛さん、もしよかったらいつかお話しする機会は持てませんか。」
なんと驚くべきことに、凛は全く動揺する素振りも見せず、
「いいですね!」
と顔をキラキラさせて返事をするのだった。
「あ、あのー」
俺は大胆、不躾な態度から一変気弱な少年のようになって二の句を繋いだ。
「実は、凛さんにお聞きしたいことがあって。お互いのジョギングやウォーキングの途中で話すようなことでもなくて。」
凛は幼稚園の保母さんのようにやさしい笑みを浮かべて、
「私、時間がありますから大丈夫ですよ」
と応えた。
俺は焦燥感たっぷりに早口で捲し立てるー
「僕のこと、どこの馬の骨か分からないでしょうけれど、とりあえず砧8丁目に住むミュージシャン、しかももう還暦を過ぎていて、何かギラギラした出世欲を持って音楽をやるなんていうフェイズはとっくに過ぎていて。今は砧を僕の終の住処として、歌うたいの最終盤に総決算て言うかー
言葉が貧困だな、ええと、集大成・・・そんな大したもんじゃないかー」
凛はクスクス笑っている。
「なにしろデビューしてから40年、今の境地を歌にして、いつあの世から呼ばれてもいいようにって、そんな感じでししてね。なお、今は独りです。」
そう言って俺は「しまった」と思った。「最後のはないわ。今言うようなことじゃない。そんなことを言うこと自体が嫌らしい」と感じ、顔が熱くなった。
俺は気を取り直して、
「ミュージシャンなんて大概はだらしない生き方をしてしまうし、僕も例外ではないんですけれど。でもだからこそ自分の人生を見つめる機会は多かったんです。その、自己の行いを見つめてアウトプットされるものが歌でして。そして結局思うんですが、私の歌とは一貫してAll you need is love精神の発露なんだと。」
凛は足踏みをやめていた。
「そのloveって、動詞なんですよね。」
凛は呟くように言い、俺は衝撃を受け、心の中で、
「え?名詞だと思ってたし、そう取ってもおかしくはないけれど、動詞?そうか、All I've got to do is call you on the phoneのcallと同じことか!」
と凛の言葉を反芻し始めていた。
「Nothing you can sing that can't be sungー」
凛は「can't」を美しいイギリス英語の響きで発音してJohnの詩を誦じた。
「歌えるもので歌い得ないものは何もない、ですよね。その前の歌詞は『することができてされ得ないものは何もない』。だから、『<愛し>さえすればいい』なんですね。」
俺はしばらく呆然として立ち尽くしていた。
そして徐に傘の下に凛を入れた。
(つづく)
2024-01-10 07:49
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