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記憶&Joyfulな女医の卵の思い出

昨日は東京もひどい雨で、折角の誕生日も家に居っぱなし、そして夕方から仕事。
それでも仲間やMick師から、また姉兄からも祝意のメッセージをいただき&もらい、
うれしいことでした。

次兄がふざけて「博ちゃん」と呼びかけてきて、姉が大笑い。
昨日の私の3歳時写真なら確かに「博ちゃん」と呼びかけるところだけれど、
60年以上経った「前期高齢者」に向かってそれはないだろう。ハハハ。

次兄は小学生同士だった頃は「ひろぼ」と私を呼んでいました。
互いにteenagerになってからは「ひろ」だった。

「博ちゃん」という呼び方については、昨年百歳で亡くなったKのお母堂が一昨年
そう私を呼んでくださり感激したことをここで記した(はず)。
他に私を「博ちゃん」と呼んでくださったのは、隣家上野菓子店のおばちゃんと
おばあちゃん、母の店で働いてくれていたTさん、父の弟のご内儀、
母の兄のご内儀、というところかな。

菓子屋のおばちゃんを除き、全員冥土に旅立たれています。

*

またMooさんの記事について。
「記憶」と題される記事ー
昨日掲げたものの次、つまり最新記事を拝読、おもしろかった。

https://blog.goo.ne.jp/azumino_moo

その列記された「記憶」はどれも興味深いのですけれど、
私には⑥の、絵が抜群に巧くしかも慶應医学部へ進学した才女のものが印象深い。

過去に私もその方に似た存在について書いたことあります。
NYさんという人で、中学入学時、out of the blueで私の田舎へやってきたのです。
なんとそれまではキプロス島ニコシアに住んでいた、と。
お父様が朝日新聞の記者だということで、
「一体どうしてそんな子女が會津の片田舎へ?」と思って当然の椿事でした。

今なら合点がいきます。
NYさんのお父上の家系は私の田舎の素封家で、彼女のお祖父様が町誌の主筆を担われ、
その圧倒的な筆力、取材力による記事は「こんな人がオラだぢの町にいるのだ」と
誰もが誇りに思うレベルでした。

お父様はきっと朝日新聞の東京本社とかへ転勤となり、
お連れ合いと娘(2人)を郷土に住まわしてみようという気になったのでしょう。

彼女の学力は圧倒的で、学年1位を中3の最後まで貫き通したのです。
英語はnative。
発音では誰にも負けないと自負していたBeatles少年だった私は、
中1でそのNYさんと同じクラスとなり、天狗になろうとしていた私の鼻は、
出端から挫かれてしまいました。

ある日下校が同じになって、私が「イクスキューズ・ミー」とふざけて話しかけると、
振り向いて一言、「変な発音!」。
そうです、「<エ>クスキューズ・ミー」なのです。

そんなNYさんは會津若松の名門県立女子高へ進学、福島県立医科大に入り、
その後大学に残って確か教授にまで上りつめたはず。

彼女は進歩的な人でもあって、弁論大会で保守的な中学の校風を堂々批判し、
「おいおい内申点大丈夫か」とこちらが冷や汗をかくほど。
そして私も彼女の進歩的片鱗を直接知る機会がありました。
お祖父様と私の父が町史編纂事業で知り合いだったということもあってか、
またN家の邸宅が私の母の実家(旅館だった)に近いこともあってか、
そんなに<縁遠い>存在ではないということで、
例えばBadfingerの「Baby Blue」という歌の歌詞を彼女に訳してもらったりしました。
また高校時代は、彼女の方から映画を一緒に観ようと誘ってくれて、
會津若松で当時の<問題作>を楽しんだりしました。

けれど、互いに大学生になってからの夏休みに会って以来、
もうずっと疎遠になってしまった。

Mooさんの慶應医学部へ進まれ家業の医院を継がれた同級生、
私の、医学を教える立場になった同級生ー

おもしろいです、もちろん個人的に。

*

さて、<絵の上手い女生徒>ということなら、私の姉もかつては。(笑)

IMG_0885.jpeg


いや、今も姉は花の絵師として現役です。
姉のサインまで入れるため、下手くそな撮り方になってしまっていますが、
まあ、お許しを。

桐の花。
會津の実家の裏庭に桐の木がありました。
初夏の開花期、独特の芳香を周辺に漂わし、花をボタボタと落とします。
その香りは幼い頃の初夏の記憶と一体です。


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