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殺し合う万物の霊長よ

79回目の広島原爆忌。

私が小学校5、6年生のときの担任は山内林子先生、戦中派で、
戦争大反対の紛うことなき日教組組合員ー

6年生の夏休み前、七月のある日、道徳の授業だったのか、
先生は広島の悲惨な写真を私らに見せたのだった。

もちろん衝撃だった。
しかし、ゆえに先生はやりすぎだと私が思うことはなかった。
ところが刺激が強すぎた児童がいて、親へそのことを話し、先生は非難を受けた。
職員会議でも責められたのではないか。

私は、そのことだけがきっかけではないが、
絶対平和主義者とも言うべき人間になっていった。
いったい人がどうして他の者の命を奪えるのかー
そんな「権利」などどう考えてもありようがないと心から思ったのだ。

とは云え、高齢者になった今、その絶対平和主義はますます確固たるものになって
いるかと問われれば、正直な話、全然そんなことはない。
交通ルール、マナーを守らぬ者へは悪罵を投げつけたくなるし、
実際聞こえないように投げつけているし、無謀すぎる運転をする者、
ゴミを平気で路上などに捨てる者たちは「死んでしまえ!」とも思う。

こういう感情が、訳のわからん「東洋の猿たち」を根こそぎ懲らしめてやるという
1945年原爆投下時のアメリカ軍が抱いていた想いに通底するのは疑いない。
もちろん「通底」とは言っても、距離は相当に離れているけれど。

Xのあるポストで、イランがイスラエルへ相当規模の報復攻撃をするという
内容のものを目にして、暗澹とした気持ちになった。
そんなことになったら、あのネタニアフのことだ、核を使って反撃してもおかしくない。

ホモ・サピエンスなんて、こんなものなのだ。
何が万物の霊長だ。

*

Mooさんの学生たちによる左翼運動の記事を全部読ませていただいて思ったのは、
Mooさんは、そして東北大学の仲間たちは、つまりサルトルに与しなかったのだな、
ということであった。

社会主義国家指導者たちはもちろんのことだが、サルトルはフランスという西側
自由主義陣営の国で、植民地解放、社会主義・共産主義革命のためなら暴力行使も
許容されるという立場をとった(はずだ)。
この<偉大な>実存主義哲学者の応援は、どれほどソ連などの政治家たちを励ました
ことか。(その後ソ連のハンガリーなどへの軍事介入に反対したりはしたが。)

植民地解放運動が、闘争となって、収奪者たちを武力で追い出すことは正しいか。
双方の犠牲はしかたがないか。

一方が武装し、攻撃してくる以上、もう一方も武装し反撃するのは当然か。

一方の大義のため、敵を、無辜の民を含め、殲滅するのは許されるのか。

サルトルはGandhiの運動をどう捉えていたのだろう。


黙祷。

(松井市長のだらしない姿勢に抗議しつつ。)


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