水と緑と広い空に看取られて
(砧公園より 東、大原さんが住まれ、逝去された岡本の方向の空)
中1のReview Test作成が終わって、TVを何気なくつけて見たら、
渡瀬恒彦さんの十津川警部シリーズ、2004年制作の元妻大原麗子さんとの共演回。
この回については前にも書いた記憶があるが、まあ、新しい視点で書こう。
これは、大原さんが亡くなる5年前の元夫との共演、そして最後のTV出演だったという。
5年後彼女は世田谷区岡本3丁目の自宅で死後2週間ほど経った時点で発見された。
このご自宅は、私が二子玉川河川敷に行く際やその帰りなどによく使う道沿いに在った。
仲代達矢さんの無名塾(とご自宅)がある岡本1丁目の坂を下りて、谷戸川を渡り、
3丁目の丘を上る道があるが、その途中の右側に建つ大豪邸だったらしい。
「孤独死」だった。
誰にも看取られぬ死、ということだが、臨終時に家族などが間に合わなかったケースは
含まないのだろう。
亡くなってから常識的な時間より過ぎた時点で発見された死ということか。
世田谷区の保坂区長がXで若者(10代〜30代)の都内3年間での「孤独死」が
742人に上ったという恐ろしい数字を挙げ、「対策を」と書いておられた。
大原さんは62歳で他界されたが、その最期と同じありようで742人の若者がこの世を
去ったというのだ。多くが自死とのこと。
どちらがより悲惨かという問題ではない。
それでも、やはり若い身空で独り最期を迎える方が私には胸が詰まる思いがする。
岡本3丁目は大豪邸が立ち並ぶセレブ住宅地で、それだけで恵まれた地域だろうが、
本当に恵まれているのは、都心に近い(すなわち俳優にとっては仕事の中心地に
近い)にもかかわらず、成城や田園調布と同じでやはり国分寺崖線の高台に在って、
富士がよく見え、砧公園にも、静嘉堂にも、また丸子川親水公園などいずれにも近い。
大原さんはそこに豪邸を建てつつも孤独だったのか?
確かに一緒に住む人はいなかったのだろうけれども、都内有数の緑と水豊かな住宅地に
住みながら、本当に孤独だったのか。
Wikiに拠ると、
一つ 孤独な鳥は高く高く飛ぶ
二つ 孤独な鳥は仲間を求めない、同類さえ求めない
三つ 孤独な鳥は嘴を天空に向ける
四つ 孤独な鳥は決まった色をもたない
五つ 孤独な鳥はしずかに歌う
— サン・ファン・デ・ラ・クルス
という『孤独な鳥の、5つの条件』という詩が衣装部屋の壁に掲げられていたという。
鳥の、自然死した遺骸を私はほとんど見たことがない。
「事故」死(障害物に激突しての死、クルマなどに轢かれての死など)での遺骸や、
猛禽類などに襲われてほとんど羽ばかりになってしまったものは見たことがあるけれど、
年老いて亡くなったのだろうと思えるような亡骸は見たことがない。
独り、ただ誰にも看取られず、息を引きとるのだろう。
愛する人たちに看取られて死ぬ方がもちろん幸福と言える。
しかしそうでなかったとしても、臨終は結局独りで体験するものなのだから、
大騒ぎするようなことではなかろう。
問題は、不幸と感じる感性にこころ全体を絡みとられてしまい、自ら死を選ぶ若人を
どう共同体は救っていくのか、だ。
功成り名を遂げて、恵まれたとしか言いようがない家、環境の中逝った大原さんは、
独りで死ぬことを覚悟し、
それをむしろ孤高なことと泰然として受け容れたのかもしれない。
都内の、きっと狭く、四囲が人工物だらけの環境で、緑や水、広い空に慰められぬまま
命を引き取った若者たちのことを悲しく思う。
月に祝福された友たちとの親睦
昨夕はMick師を囲んで登戸の更科蕎麦屋で呑んだ。
師のお誕生日が近いこと、そしてKの誕生日もまもなくだからというのが会の趣旨。
治雄ちゃんが遠路はるばる来てくれて、本当にありがたい。
店主が稲田中出身の地元民で、そんなことでも話が盛り上がった。
稲田中、中野島中、枡形中・・・
懐かしい。
参加者のそれぞれの近況を知り、互いが心配し、笑い、また会おうと名残惜しく別れるー
みな歳をとって、想いはいよいよ切実になって。
外に出ると、その稲田地区への真っ直ぐな道の向こうに満月が。
まるで私に、友人たちに、笑みを浮かべているようだった。
酩酊していたからの錯覚ではない。
確かにそれなり飲んだし、euphoricにもなっていたが、
私は決して酩酊などしていなかったし。
あのタイミングで満月とface-to-faceになること、それは月からの祝福であって、
偶然や思い込みとかの言葉で形容しては全く正確ではない、
また、つまらなさ過ぎる。
月に祝福されたと思える自分、今を、私は感謝した。