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共通点は、也寸志さんも私も三男だということだけではなかろう

ポタリングから帰ってきた。

ヒグラシがもう鳴いているのではと、毎年確実にいる成城4丁目の崖線の森付近へ。
ところが大好きなあの見事な<減衰の歌>は聞けず、
代わりに「シャアシャアシャア」・・・
東日本人間の私にはどうにも馴染めぬクマゼミの暑苦しく単調なただの持続音を
聞かされるだけであった。

もちろん西日本各地のみなさんには「これぞ夏の音」なのだろうことは分かる。
悪口を言って申し訳ないのだが、セミについての好悪はどうにもならない。


失意の裡に(!)成城4丁目で野川のほとりに下りて、次はどこへと思ったのだが、
「そうだ、調布市入間町だ」とすぐに思いついた。
というのも、昨日芥川也寸志さんの「Triptyque」や「交響三章」を久しぶりに聴いて、
しみじみこの龍之介三男坊の天才にあらためて感じ入ったからだった。

で?
也寸志さんは、なぜか成城ではなく、西隣の調布市入間町に暮らしたのだ。
彼ほどの人が成城に家を建てられぬはずはなく、ということは、
きっと閑静な成城であってもさらに家の少ない国分寺崖線上の森の中、
すなわち調布市入間町に住まいを求めたとしか考えられない。

その入間町も宅地化が激しく也寸志さんの家購入時とは全く違ってしまっているはず。

入間町は地勢的におもしろいところだ。
北は仙川、南は野川に、その2点距離短く挟まれているところなのだ。
いや、もちろん成城も2つの川に挟まれているし、その距離は入間町のより短い。
その2つの一級河川が交わるのは二子玉川だから、そこには到底敵わない
(だからどうしたの比較ではある)。
それでも往時、入間町を南北で挟む川のほとりと入間の段丘は武蔵野の面影色濃く、
静かさ(閑かさ)は今と段違いだったのは疑いない。
きっと也寸志さんは、作曲に疲れれば、今日は仙川、明日は野川と代わる代わる
散策したに違いないと思うのだ。

また入間町は桐朋学園とも近い。
也寸志さんは東京音大(=東京藝大)出身なので直接のつながりはないだろうが、
クラシック音楽人の東京西部のメッカである調布市仙川(桐朋学園の所在地)の
近くに居を構えたのはただの偶然とも思えない。
桐朋の学生たちは、也寸志さんの曲を今も盛んに演奏しているのだ。

也寸志さんは音楽教育を幼児から受けていたわけではない。
確か思春期を遠く過ぎてからピアノを習い始めたという遅咲きもいいところ。
音楽学校もギリギリ合格で、龍之介の息子として恥ずかしく思えと
校長から叱責されたという。

そんな遅咲きの作曲家が、在学中に「交響三章」を書き上げる。
なんという天才。

YouTubeには「Triptyque」の1st Movementの演奏が特に多く上げられていて、
日本の演奏家、学生たちはもちろん、台湾での人気がすごいことが分かる。
また東欧や中央アジアの人々もAkutagawaを愛していることが分かるのだ。

うらやましい。
こういう人をこそ私は憧憬する。


也寸志さんが入間町に住んでおられた頃、クマゼミは東京にいなかったはずだ。
勝手な想像だが、蝉の中ではヒグラシを一番愛されたのではないか。
おそらく昔の入間町の風情を残すのは西隣の若葉町であり、
私が狛江の東野川在住時、ヒグラシの輪唱を聴きに行ったのがそこである。
ここは武者小路実篤が暮らしたところだ。

也寸志さんがもし崖線の森で「シャアシャアシャア」を耳にしていたら、
きっと私と同じように、「西日本でお鳴きよ」と呟かれていたことだろう。

勝手なこと言って!



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