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Kに「F+f」を望む

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漱石が文学論で「(literature=)F+f」といふことを書いてゐる。
「F」はFocusであり、焦点的認識・観念、
「f」はfeelingであり、情緒・感情なのだと。
それを余が咀嚼すると、まるで俳句論だと思ふのだ。

肩に来て 人懐かしや 赤蜻蛉

漱石の句である。
「肩に来」た「赤蜻蛉」はすなはち「F」であり、「人懐かしや」は「f」だ。

そしてかう考へれば、文學許りか藝術全般にそのことは言へる。
余も歌を作るが、例へば或る歌は、余が成城の丘から吹き降りた風を受けて、
その崖線上の木々の樹幹がそよぐのを遠望した事実を認知し(F)、
その風は丘ないしその木々からの余への「I love you」といふ囁きであると
うれしく思ひ(f)、<節>をつけ、歌つたのである。

さて、何故こんなことを書いてゐるかといふと、
Kの一連のYouTube videosを観てゐて惜しいかなと思ふのが、
大凡上述の点の欠落であるからなのだ。

彼は小水の頻度や量のことを赤裸々に語る。
闘病記ゆゑ当然と言へば当然である。
余にすれば、であれば、もつと他の事についても赤裸々であつて良いと思ふのだ。

彼が今住む中野区某所(videoを見てゐれば何処かは瞭然であるが)は、
仕事場としてはそれなりに長く居たところではあるが、
住処としては日が浅いゆゑ、徘徊して出会ふ事物への「f」がほとんどない。
そこが余には口惜しいのだ。

最新のvideoで、給水塔の件(くだり)、ここでKの「f」が語られる。
この給水塔をモデルに描いたシーンのある、
彼が携わつた某アニメ作品に纏はる想ひなのだ。
併し今でもそのアニメ制作の会社に属すがゆゑ、限定的な想ひしか語られぬ。

「この闘病記・リハビリをテーマにするYouTuberの赤裸々な思ひは?」
余は一視聴者としてもつと知りたいと思ふ。

Kの「f」が詰まつたやうな処まで遠征せよと病気の彼には勿論言へない。
併し、例へば中野の上高田周辺にも春夏秋冬、花が咲き、虫や鳥が鳴く。
(彼が毎日作る季節感あふれる手料理の「コーナー」は非常に良い!)
心惹かれる女性が歩き、もう已に逝つて了つた人の面影を持つ人と擦れちがふ。
それはおそらく人間(じんかん=世間)である限り何処でも同じことだらう。
それを切掛にして彼が何かを語れば良いのに。
博物学的知識、植物学的でも、歴史的知識でも良いのだ。
そして最も好ましいのは、その「F」に喚起された彼の体験の吐露「f」だ。

さういふ要素がvideoに加はれば、と余は願ふ。


(なほ冒頭の写真は去年撮つた喜多見ふれあい広場から西を望んでの景。
この広場での思ひ出は多数、多量。いつか書くね。)



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