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導き出せぬ日本のeducators

中1の時、大好きだった曲は色々あったが、
George HarrisonのMy Sweet Lord
LoboのMe and You and the Dog Named Boo
などがすぐに浮かぶ。

もう1曲、かなりの頻度で聴きかつレコードに合わせ一緒に歌ったものに
Mark Lindsay & The RaidersのIndian Reservationがあった。



北米先住民族チェロキー族の悲劇を歌ったものだ。

朝日新聞を読んでいたら、今でも「同化政策」によって多くの北米先住民が命を落として
いるらしいという記事に出会った。

アメリカやカナダなんて、自由の国もいいところのはずで、
公立の学校の教室風景なんか見てしまうと、その統一の取れなささに戸惑うほどだ。
ここまで自由でいいのか、などとすら思ってしまう。
日本の教師たちが、生徒らに同じ服装をさせ、髪型をコントロールし、
なるべく彼ら彼女らに個を出させずに授業をしたくなる気持ちも少しは分かる。
はっきり言ってどっちも行き過ぎなのだ。

私立の学校で、そういう校風ですと謳い、それに賛同してのことなら無論良い。
しかし問題は公立の学校ではどうするのか、ということだ。

教師たちが生徒をなにしろ均質化、画一化させたくなるのはそれが楽だからだ。
教師にとって職務遂行上楽であることを一概に否定はしない。
くだらないところで人と違うことをして個性とイキがる生徒はいただけない。
それは分かる。

しかし、だから「なんでも同じにしてしまえ、逆らうヤツは素行不良だ、
反抗的だ、内申点を悪くするぞ」では全然教育ではない。

大昔も書いたかもしれないが、「教」の字は<より老いた者を子が支える>という
「孝」の字に、「攵」、すなわち鞭を使う人の象形文字から成っている。
翻ってeducateという英語はラテン語educatusに由来し、
「e(x)-」はout、-ducateはleadを意味し、「引き出す、導き出す」だ。

ひとり一人のいいところを導き出すことが教育者の使命なのだー
などと書いても空しい話が多すぎる今だ。

私は中1の頃、あまりに個を無視する中学の教師たち(例外は数人いたが)に
ほとんど絶望して、アメリカやイギリスのロッカーが歌い、体現するanother
worldに憧れ、まるで隠れキリシタンのように生きていたのだった。



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