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二面あつて好いぢやないか、抔と言ふ修羅の私

(宮沢)賢治さんが日蓮宗系の国柱会に入り、本郷に暮らして会の活動に従事したことは
よく知られている事実だ。
お父上が熱心な浄土真宗の門徒であったにも拘らず、賢治さんは真逆の教義とも言える
法華経に深く帰依したのは、本当に単純化して言えば、
「絶対他力」でなにしろ阿弥陀様の御本願(すべての衆生を救うこと)に信をおき、
あの世へ往き、あの世で生きるためただその名号を唱えよということではなく、
この世を自ら菩薩となって浄土にする心意気を持ったということだったからだ(と思う)。

「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」

彼の『農民芸術概論綱要』の「序論」にあることばだ。
こんな途方もないことを考えて、己の学問を活かしきってまずは近隣の農民たちの助けに
なろうと実践するとき、それはそれは心細いことも多々あったろうから、
同じ夢を岩手山で語り合った保阪嘉内氏をどれほど恃みにしたことだろう。
そして保阪氏が物理的ばかりか精神的にも遠くなってしまったと感じたとき、
どれほど賢治さんは悲しかったろう。

だいたい、彼は「ひとりの修羅なのだ」。
妹を兄弟姉妹愛を超えてしまうほど愛している自分に気づき、
それを己の「諂曲(てんごく)」性のひとつにしたのではないかー
もちろん保阪氏への男同士の友情を超えた感情も。
そういう自分に怒る修羅!

この「諂曲」ということばの解釈を巡っては諸説ある。
NHKの『映像詩 宮沢賢治 銀河への旅~慟哭の愛と祈り』を制作した今井勉氏は、
東大講師でもあった<真宗>僧侶島田大等の『妙法蓮華経』での解説にある
<諂曲」の字の右に「てんごく」とルビを付し、左側に片仮名で「ヨコシマ」とカナを
当てている。すなわち「邪(よこしま)」である。
「諂曲心不実」は「邪にして心不実なり」だ>とする説に合点している。

私も賛成だが、「諂曲」の「諂(へつら)い」についてはその字義どおりでも
よかろうとも思う。
特に盛岡高等農林を退学させられ、故郷韮崎へ帰ってしまった保阪氏へは、
自分を忘れ、「捨て」て欲しくないからと賢治さんは相当に諂ったはずだ。
(「捨てるな」とは実際に賢治さんが保阪氏へ訴えている。)

そんな自分ー

世のすべての人の幸いを願いながら、しかし己を「諂曲」の人ともしなければ
ならない二面性あるいは自己矛盾に賢治さんは瞋(いか)っていたのだろう。



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